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a:5:{s:8:"template";s:3952:"<!DOCTYPE html> <html lang="ja"> <head> <meta charset="utf-8"/> <title>{{ keyword }}</title> <link href="http://fonts.googleapis.com/css?family=Open+Sans:300italic,400italic,700italic,800italic,400,300,700,800|Raleway:400,200,100,500,700,800,900&subset=latin,latin-ext" id="divi-fonts-css" media="all" rel="stylesheet" type="text/css"/> <meta content="width=device-width, initial-scale=1.0, maximum-scale=1.0, user-scalable=0" name="viewport"/> <style rel="stylesheet" type="text/css"> @font-face{font-family:Raleway;font-style:normal;font-weight:100;src:local('Raleway Thin'),local('Raleway-Thin'),url(http://fonts.gstatic.com/s/raleway/v14/1Ptsg8zYS_SKggPNwE44Q4Fv.ttf) format('truetype')}@font-face{font-family:Raleway;font-style:normal;font-weight:200;src:local('Raleway ExtraLight'),local('Raleway-ExtraLight'),url(http://fonts.gstatic.com/s/raleway/v14/1Ptrg8zYS_SKggPNwOIpWqhPBQ.ttf) 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links }} <p id="footer-info">{{ keyword }} 2020</p> </div> </div> </footer> </body> </html>";s:4:"text";s:292826:"お互いあまり気を遣(つか)わない、遣(つか)わせない。参加した人が、それぞれの楽しみ方で良いそうなのです。 そうなんです!日本で家に招待された場合、主催者がキッチンに行きっぱなしでお客さんに気を遣いすぎて、主催者が楽しんでないんです。 この城址には、二度ほど訪れた。初めは、車で都幾川に向かう道に途中にある駐車場に停めて、大手門跡側から、西の郭、三の郭に出て、二の郭から本郭に向かった。空堀の大きいこと、各郭の広いことなどの印象が残っている。2回目は、東武東上線の武蔵嵐山駅から歩いて訪問した。この時は、搦手門跡から嵐山史跡の博物館を見学したあとに城址をみて回った。菅谷城址は、鎌倉時代の畠山重忠の所領地内であるので、そちらの関連が多いという印象であったが、むしろ室町時代から戦国時代に関連したものが多い と認識を改めた。 <地図> 菅谷城は嵐山町の南部、地形が丘陵から台地へと変換し、都幾川が川幅を広げ緩やかな流れになった左岸の断崖に上に位置する。城の東側に隣接して鎌倉街道上道が都幾川を渡河し、対岸には大蔵宿があり、大蔵館跡をはじめ、集落、市、寺院など鎌倉時代から続く中世の遺跡群が密集する。菅谷城の北西には須賀谷原合戦の際に山内上杉氏方の太田資康が陣を敷いた平沢寺があり、菅谷城を中心に凝縮された中世空間を体感することができる。菅谷城の三の郭内には埼土県立嵐山史跡の博物館があり、埼玉県北西部の中世を主体とした展示や解説がなされてあり、比企地域の中世城館を訪れる際のメインガイダンス施設となっている。 <遺構> 菅谷城は台地にしに築かれた平城であるが、本郭・南郭・二の郭・三の郭・西郭の五つの郭が本郭を中心仁扇形に配されている。菅谷の地名の語源は、スゲの生い茂る原で谷津が入り組んだ地形から付けられたとされる。菅谷城の北側は湿地帯の、南側は都幾川左岸に接する断崖となり、城の東西はこの都幾川へと注ぐ小河川による狭く角度をもつ谷が入り、こうした自然の要害を巧みに利用した立地となっている。この城の縄張の特徴は、各郭が広いことが挙げられ、総面積は約13万平方メートルにおよぶ。各郭の面積は、本郭・約950平方メートル、二の郭・約1万3900平方メートル、二の郭・約2万7100平方メートル、西の郭・約8200平方メートル、南郭、約4400平方メートルである。こうした各郭の広大な面積から、菅谷城は大量の兵馬を駐留できる兵站基地の意味あいがあったのではないかと考えられている。また、郭の面積に比例して、土塁の高さ、堀の幅と深さも規模が大きくなり、本郭北側では土塁高約4メートル、 堀幅約17メートル、堀底から土塁頂部までは約9メートルと圧倒的な防御を見せる。規模が大きいため、杉山城のように技巧を畳み掛けるような感はないが、横矢掛かりや塁線の折れ、桝形虎□などの技巧も随所に見られ、二の郭から本郭虎口の侵入に対しての横矢や西の郭北側の連続する塁線の折れなどは見所の一つである。さらに現況では見ることはできないが、発掘調査などで三の郭から西の郭へかかる橋梁の斜面部分や、西の郭北側土塁裾の内側などに石敷きのような遺構が確認されており、杉山城・腰越城・小倉城・青山城とともに比企地域における(石)を持つ城のひとつとして注目される。 <歴史> 関東中を戦乱に巻き込み、29年間の長きにおよんだ享徳の乱が文明14年(1482)に終焉した。この乱により台頭してきた関東管領上杉氏であるが、同族の山内上杉顕定の讒言により文明18年(1486)に太田資長が主家の扇谷上杉定正に殺害されたことにより、山内・扇谷両上杉氏の対立が本格化していった。そして翌、長享元年(1487)から永正2年(1505)にかけて長享の乱が再び関東を戦乱の場にした。長享元年(1487)、相模の実蒔原合戦に続き、長享2年6月に須賀谷原の合戦が、同年11月には高見原の合戦(小川町)が関東中の武士を集めてこの地で繰り広げられた。比企地域で二度も大きな合戦が行なわれたのは、山内上杉氏の本拠である鉢形城(寄居町)と扇谷上杉氏の武蔵国での拠点・河越城(川越市)が対峙する中で比企地域が両陣営の境目として位置付けられていたからと思われる。須賀谷原の合戦は、扇谷上杉定正が古河公方足利成氏・政氏、長尾景春と結び山内上杉氏の領域に侵攻してきたもので、死者七百余、 馬もまた数百匹倒れるほど激しいものであり、主家の扇谷上杉氏に父を殺された太田資長の嫡子・太田資康は山内上杉方に組していた。合戦は当初山内上杉氏方が押していたものの、盛り返した扇谷上杉方が優勢で山内上杉方が撤退して終結したとされている。新田家純の陣僧、松陰は須賀谷原の合戦の後、新田家純に対して扇谷上杉氏の拠点・河越城に対して山内上杉氏方としては須賀谷の旧城を再興し、鉢形城を普請して堅固にするように進言している。須賀原の合戦との位置関係から、この須賀原が畠山重忠の居館・菅谷館を示すものと思われ、再興されたのが現在の菅谷城ではないかとされる。過去の五次にわたる発掘調査では14~15世紀の墓域の後、15世紀後半~16世紀前半に城として機能し、16世紀後半が空白となりふたたび17七世紀の遺物が出土しており、このことも須賀谷旧城は菅谷城であることを裏付けることとなっている。菅谷城は旧城再興の後、北条氏により整備・拡大されたとも考えられているが、須賀谷原 の合戦後も両上杉氏の対立による境目の緊張状態が続く中で築城された。大永4年(1524)の北条氏による江戸城奪取後、16世紀中頃になり両上杉氏と古河公方の連携による対北条氏という構図へと移り変わり、さらに、戦乱の場は武蔵国東部から南部と相模国へと移り、武蔵国北西部では主戦場は河越城-松山城という拠点間の点的かつ直線的な動きへと集約していく。さらに天文15年(1546)の河越合戦後、上杉氏は松山城、平井城、さらには越後へと退くこととなる。16世紀中頃以降、河越城-松山城―鉢形城ラインから外れた菅谷城は、北条氏の領国支配下となった後には北条氏の拡大する支配圈の境目はさらに北方および東方へと大きく移ったためにその役割を終えることとなったと思われる。 <関連武将>上杉顕定、上杉定正、太田資康</関連武将> <出典>関東の名城を歩く南関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)</出典>JR蕨駅から歩いた。蕨駅を出て、西南方向の道路(駅前通り)を進み池田屋呉服店と所で、右折し城址公園通りに入る。ほどなく蕨市中央公民館などの公共の施設の建物があり、その先にある蕨城址公園に着く。入り口には案内板があり、園内は大部分が芝生で周囲に樹木が茂っている。中央公民館とは反対側に和楽備神社があり、公園との境界に水堀(復元と思うが)などがあり、唯一城址を思われる場所である。車で訪問したときは、R117に接して和楽備神社があるので、そこに駐車すればよい。それにしても、現在は市街地の平地の場所であるので、当時は城としての防禦はどうしていたのだろうか。 <地図> 渋川氏歴代の居城とされる蕨城は、蕨市の市街地の中にある。地形的には旧荒川がつくった自然堤防の上にある。 <遺構> 蕨城の跡は、家康によって鷹場御殿にされたようであるが、その後は城址のよすがもしだいに失われ、現在では市街地となっており、わずかに和楽備神社の南側に土塁・水堀がみられる。また南東には城主渋川氏の菩提所という宝樹院があり、江戸時代に建てられた渋川氏夫妻の墓がある。なお蕨城は、隣接の戸田市元蕨にあったという説もかなり有力である。 <歴史> 足利氏一門である渋川氏は応永3年(1396)、今川了俊に代わって満頼が任ぜられて以後、代々室町幕府の九州探題を勤める家柄であった。満頼の父左兵衛佐義行は貞治・応安(1362-75)の頃に武蔵国司になり、足立郡蕨に住していた。そして満頼の孫にあたる渋川左衛門佐義鏡は、長禄元年(1457)、将軍足利義政より関東探題に任ぜられて蕨城に入った。義鏡は、東国の諸軍を督して幕府に抗している足利成氏(古河公方)を討伐して、関東を幕府の支配下に入れようとしたのである。しかし、これはかえって群雄割拠の時代を招いてしまった。大永4年(1524)正月、北条氏綱は江戸城を攻撃し上杉朝興を追い、いよいよ埼玉県の南部地方にも及んできた。同年8月には浦和市の郊外にある三室の郷に制札を下しているから、この間に蕨もその勢力下に入ったのであろう。渋川氏も北条氏に属するようになった。ところが北条氏綱に追われた上杉朝興は河越城にあって勢力を立て直し、まず同6年5月には蕨城に渋川氏を攻めた。北条氏綱 は蕨城を救わんがために兵を進めたが時すでに遅く、6月7日、蕨城は落落した。その後、渋川氏はまた北条氏の力を借り蕨城を奪い返したが、永禄10年(1567)、安房の里見義弘の上総三船城攻撃にあたり北条方救援のため岩槻の太田氏資らと共に出陣し、討死した。これを聞いた渋川氏の夫人は、上野榛名湖に入水し竜と化したという。蕨城に残っていた渋川氏の一族も、天正18年(1590)の徳川家康の関東入国の一年後には蕨の地から姿を消したという。 <関連武将>上杉朝興、北条氏綱</関連武将> <出典>日本城郭大系</出典>歴史上では長井城として出てくるので、群馬県にある長井坂城のことかと思ったり、その場所が特定できなかった。それが、熊谷市の西城にある西城が長井城であることがわかって、出かけた。万有製薬の工場を目指してゆきその東側の農家の点在する田んぼの中にかなり目立つ石碑を発見した。そこが長井城のあった場所のようだが、残念ながら城の遺構と思われるものは消滅していた。<地図>熊谷市と合併した妻沼町にあった城で、周辺は田園風景が広がる農村地帯で、現在は万有製薬の工場に東側の田園のなかに石碑が建っている。北には、利根川に注ぐ福川が流れ、南には荒川が流れる平野にある。北東部には館林城が位置する。<遺構>この城跡は、土地改良によって、遺構が残っていないが、地元で建てられたと思われる石碑に歴史が記載されている。<歴史>平安時代の天禄年間(970~973)に藤原義孝が居館を築いたことが西城の歴史の幕開けとされるが、実際に城を築いたのは義孝の子忠基であるとか、その末裔の幡羅道宗であるとの異説もあり、実際のところよくわからないのだが、武蔵騎にの中での有数の古い歴史を持つ城であることには間違いなさそうだ。やがて前九年の役で活躍し長井庄を領有した斎藤実遠の居城となり、斎藤氏が居城を移した後は幡羅氏の系譜を受け継ぐ成田氏の持ち城の一つになったらしい。文明8年(1476)に山内上杉氏の家宰後継者を巡る紛争により長尾景春が乱を起こすと、扇谷上杉氏の家宰であった名将太田資長が乱の鎮圧のために出陣し、長尾景春の居城鉢形城を落城させた。芳賀尾景春は西城の砦である東城へ逃げ込んだ後に秩父の山中へ落ち延びていった。この時、太田資長は、西城を攻め落としている。<関連武将>長尾景春、太田資長</関連武将><出典>城郭図鑑</出典>正直いって、城址に訪問したという感じのしない本庄城である。史料に出てくる城であるので、城山稲荷神社付近を訪れたが、確かにこの神社には大木があって歴史を感じることがでたが、周囲は住宅地になっており、利根川の堤防までいってみたが、現在の地形は城が構築されされるような場所でもなかった。川は流路が変わることがあるので、その影響かもしれない。でも、城址が私有地で立ち入ることがはばかれる所もあるので、この城址がよそ者も気兼ねなく入れる神社で名前も残っているので、よしとすべきであろう。 <地図> 利根川の河岸段丘上に位置していて、台地の舌状部に構築されていた。城の東側に谷が入り込んでいて、その谷の西側を中心とする一帯が城域であった。北側は10mの崖になり、崖の下には幅20mの小山川が流れている。城域の傍らには城山稲荷神社が祀られ、築城の時に植えたと伝えられる県指定の欅の大木がある <遺構> 本庄城址付近は近年宅地化か進み、城址としての遺構を確認することはできない。『児玉記考』によれば「宮内少輔滅亡ノ前ハ中央ノ大池形ヲ成セル凹地ヲ挾ンデム右二城郭ヲ備へ頗ル広大ナリシカノ観アルモ小笠原信嶺再築ノ後此ノ凹地ヲ東方外郭ノ地トナシ」とある。武蔵七党の一つ児玉党の庄氏がこの地に居住し、庄太郎頼家の代に本庄氏を名のっている。しかし、本庄氏の館についてこの地であるともいうが定かではない。 <歴史> 城は本庄実忠の時、永禄10年(1567)に、鉢形城主北条氏邦の攻撃を受けて落城し、その後、鉢形北条氏の配下となったが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の北条氏攻略に伴い、同年5月、城主隼人正は敗れて落城した。徳川家康の関東入国後、天正18年9月には、信濃国松尾の城主小笠原掃部大失信嶺が児玉郡内に1万石を賜わって本庄城主となったが、養嗣子左衛門佐信之の代の慶長17年(1612)、1万石を加増されて下総古河へ転封され、本庄藩は廃藩となった。その後一時、関東郡代伊丹播磨守の陣屋が置かれたこともある。城址の面積については現住不明であるが、元禄13年(1700)の「城跡検地帳」によると「城址は三町四反五畝二十九歩」とある。 <関連武将>北条氏邦</関連武将> <出典>日本城郭大系、むさし城跡ウオーキング</出典>埼玉県秩父市荒川日野呑だ熊の城山の山頂付近にあった日野城(熊倉城)であるが、車で近くまで行けるとのことで、いってみた。白久温泉から先の林道は車が台通れる程度のくねくね道で、峠にやや開けた場所があり、駐車でき、城址入口の案内があった。山道は杉林の中をまずは尾根に達するまでは、急な登りで、尾根に達するとやや緩い道になり、城址に達した。案内がなければ城址とは気遣いような場所で、かなり埋まってしまった空堀や曲輪跡を思えるような地形が杉林のなかに認められた。 <地図> 日野城(熊倉城)は熊倉山(1427m)の北麓に当たる小岳()648mの山頂にある山城で、里人はこの山を「じょうやま」と呼んでおり、真建(馬立)城とする記載もある。この城に近くまで林道が作られており、谷津川を遡り、白久温泉から舗装してある山道で車で登ることが 出来る。熊倉城入口の案内から階段の山道を行くと、間伐が行われている明るい空間に、城の遺構が確認できる。 <遺構> 安谷川と谷津川に挾まれた要害で、日野口が大手、白久口が搦子といわれる。城址には現在でも数条の空堀が明瞭に残っている。郭に当たる三か所の平坦地がこの空堀で隔てられており、大手口にある平坦地が三の丸、搦手にあるのが二の丸、山頂中央部が本丸跡と伝えられる。城址付近には「馬立」「一ノ木戸」「大旗」「飯米場」「矢の沢」「矢通反」「きんざん坂」「松葉」(的場?)「つづくっ原」「小畑陣」などの地名が残されており、それぞれに往時をしのぼせる伝承が語り伝えられている。伝承の域を出て いないが、熊倉城と谷ひとつ隔てた熊倉山中腹に、熊倉城攻略の将といわれる武田氏の家臣小畑山城守が陣を張ったと伝えられる小畑陣がある。 <歴史> 伝承によれば、文明10年(1478)、長尾伊玄入道景春は太田資長に攻略されて抗しきれず、鉢形城を放棄して翌年秩父に潜み、再興をはかっていたが、この時期に両神村薄の塩沢城と、この熊倉城を築いたと伝えられる。しかし塩沢城では夜討ちにあって敗走し、ここ熊倉城に逃げのびたが、水源を断たれてついに落城し、さらに秩父市黒谷の瑞岩寺に隠れたところを生け捕られたと伝えられる。しかし事実は、同12年、長尾景春の最後の拠点であった日尾城(小鹿野町)が太田資長に攻撃されて陥落したのち、長尾景春は古河へ逃れて古河公方足利成氏に仕えたのである。 <関連武将>長尾景春、太田資長</関連武将> <出典>日本城郭大系</出典>河村城は広い河原の酒匂川上流域とJR御殿場線の山北駅の間に盛り上がった丘陵の上にある。もしかしたら、JR山北駅付近は桜の名所であるが、線路はかなり深い位置にあるので、ある時期は酒匂川の流路であった知れない。史料に出てくる新城は、酒匂川を更に遡ると丹沢湖に通じる河内川と駿河小山方面から流れる鮎沢川の分岐に突き出した山のうえの集落の奥にある。この城は駿河方面からと道志川から犬越峠を越え、中川温泉方面から来る敵に対応する城だったのだろうか。この付近は丹沢山系と鉾根山系に挟まれた相模平野への入口にあたる要害に地であったと思われる。 <地図> 河村城は丹沢山地南西部および足柄平野の北西部に位置し、南端を酒匂川が蛇行している。城の山並みと並行して東名高速が南北に通過し、高速道路からは河村城の屏風のような景観を見渡すことできる。このような地にある河村城に、山北町は調査・整備をつづけている。地表面観察では堀がいく本ものこり、状態のよい戦国大名北条氏の山城と理解されていた。しかし調査によって予想外の状態が確認された。 まず廃城後に城を壊す「破城」がかなりの規模で行なわれていた。また地震による地割れもあり、本城郭・蔵郭付近は原地形を大きく損壊していた。さらに富士山噴火の災害復興で、火山灰の埋設が広範囲で行なわれたこともわかった。考古学的には”のこりの悪い”城であった。しかし逆に廃城後の自然や人々の営みなどが実感として伝わり、思わぬ歴史の副産物を得たような遺跡となった。河村城のある城山・浅間山の東と南には、酒匂川の上流部の広い河原が広がっており、北側の山北の御殿場線の線路も低い土地に敷かれている。 <遺構> 河村城は、北条氏系の最終段階にふさわしい規模を持つ。主郭は1で、かなり広い。曲輪2は蔵曲輪と伝えられ、発掘調査では、大量の炭化米が出土した。1との間は堀Aでへだてられが、標高差はほとんどない。堀切Aは幅が十数mあるが、これでも河村城の堀切の中では狭い方である。3は近藤曲輪と呼ばれ、当城で最大の規模を持つ堀Bによって2と分断される。Bは、深さが13m以上にもなる巨大なもので、 堀底からは障壁が検出された。河村城にとって重要な防御ラインであったことが推測される。4は大庭曲輪と呼ばれる面積的には当城最大であり、標高も225mと、1より若干高い。すぐ東の出張と称する5はほとんど削平がさなれておらず、堀Cで城外と区切られる。Cも現状で幅約25mという大規模なもので、これより東には城の遺構らしきものは見あたらない。2と同じく蔵曲輪と称する7や、多地屋敷と称する 6は削平が甘く、耕地化により遺構も判然としない。次に、主郭の北に目を移す。小曲輪8は、極めて大きな障子堀によって1・2と分断される。障子堀はどちらも幅約20m、深さ10mを超え、壁面は鋭く切り立ち、主郭や9とどう連結したのか見当もつかない。梯子などで出入りしていたのだろうか。発掘調査で曲輪内からは削り残しによる低い土塁、柵跡とも考えられるピット、投石用の礫石と思われる集石、薄い 焦土などが確認された。9は茶碓曲輪と呼ばれ、当城の北側に位置してかなりの面積を持つが、耕作や植林による破壊を受けているようで、遺構を捕らえにくい。次に、南西の尾根に目を移す。10は馬出曲輪と称するが、馬出のような構造は認められず、1との間も段によって仕切られているだけである。曲輪11を経て、これも幅20m弱の堀Dにて12と分断される。12の北にはさらに堀E、Fを入れて徹底的に遮断している。 <歴史> 河村城の語彙は14世紀からみられる。文和元年(1352)、新田義興・脇屋義治の南朝勢力が鎌倉に侵入し、北朝方の反撃を受け、新田勢は河村氏と松田氏を頼って河村城に龍もった。そのため北朝方は3月15日に河村城攻めを行なっている。南北朝の争乱の舞台として河村城は登場する。ただし、この時の河村城は山頂部にその様相を現在のところ確認できず、14世紀という年代から考えても山麓にあったと推測される。上杉禅秀の乱にさいしても河村城は登場する。禅秀の乱の緒戦で劣勢であった鎌倉公方足利持氏・関東管領上杉憲基は、鎌倉から脱し、駿河国今川範政を頼る。箱根山塊での合戦で勝利し、鎌倉を回復し勝利する。この間の応永24年(1417)12月に河村城は鎌倉公方勢の拠点となっている。河村城へは常陸国からも烟田氏も参陣している。15世紀前半頃にも断片的ながら河村城は戦乱の舞台となっている。相模国という土地柄であろうか、戦国時代以前にあっては鎌倉府と関連が深い城館として登場している。その後、しばらくは河村城の様相はわからない。史料に具体的にみえるようになるのは、永禄11年(1568)、甲斐・駿河・相模のいわゆる三国同盟が崩壊してからである。武田信玄は軍勢を南下させ、駿河国の領国化を目指す。今川氏真を庇護した北条家は相模・駿河国境に注意を払う。箱根口・足柄口とならんで国外への交通路として河村口かあり、その要衝として河村城が取り立てられる。足柄城の整備は同盟崩壊直後から開始されていたが、河村城の整備はやや遅れた元亀2年(1571)頃から開始されたらしい。具体的には深沢城(静岡県御殿場市)が武田家の拠点となったことにともない、3月11日に普請が命じられている。しかしこの普請は不十分だったらしく半年後の9月26日にも追加の普請命令が出される。この時の普請が完成したかは不明であるが、三国同盟崩壊にともなって開始された越相交渉が決裂し、 武田家と再同盟におよぶと、国境に緊張をもたらす河村城は、その存在価値を減じる。史料にも河村城の語はみられなくなる。この状況に反して、「新城」の語が天正10年(1582)頃の史料に登場する。時代は武田家滅亡から豊臣秀吉による小田原合戦の頃である。小田原の西側国境に緊張が高まった時期となる。この過程で河村口を固めるため従前の河村城の機能が再び必要になったと予想されるが、その城が「新城」と考えられている。語彙の背景には旧の河村城の対して新しい河村城という意が込められていたのだろう。新城には番に編成された軍勢が送られている。北条家独特の境界警固の方法で守られていたことも、新城が境目の城であることを裏付ける。 <関連武将>松田盛秀</関連武将> <出典>関東の名城を歩く(峰岸純夫・齋藤慎一)、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>荒川の下流から屈曲に合わせてカーブする道路は左手に城がある丘陵をまくように続く。左手の高台に白鳥神社があり、その脇から山道を登ってゆくと、頂上近くになって朽ちた櫓の近くには城の遺構と思われる地形が認められる。そこから尾根に沿って郭があったとのことであるが、樹木の中に埋もれていて、確認するのは難しい。花園城と共に藤田氏の居城であって、養子となった小田原北条氏の北条氏邦が鉢形城に移る前に居城していたとされる。 <地図> 天神山城は荒川右岸に横たわる低位の残丘性の山の上に築かれる。最高所は標高221.8m。本郭には観光開発で築かれた白亜の櫓が今は朽ちて崩落寸前になっている。山裾と川の間には狭い段丘面があるが、荒川によって、上州方面に連なる左岸段丘とは隔てられている。この城からは仲山城が眺望されるのみである。本郭のほかに、屋根上に二の郭、三の郭を配置し、荒川に面した西側斜面部には腰郭を置き、東斜面部には「出城」が置かれている。尾根上の各郭は、堀切で分断される。本郭と二の郭の間にある幅7m、深さ4mの堀切以外は観光開発で削平される。本郭は尾根北端部の幅狭い平坦地に二段に造られ、中心部に観光開発による方9mほどの櫓が築かれている。北側の残存する平坦部には幅2m程に掘込まれた小さな虎口状の窪地が見られ、さらにいくつかの腰郭や堀切が斜面下方に配され北の備えとしている。山麓の白鳥神社からの登り口がある。西側斜面部には、重要な施設の構築がみられる。中腹以上に小さな腰郭が置かれ、途中に一ヵ所大きな横堀が置かれている。本郭直下の腰郭は大きく造られている。 <遺構> 二の郭は造成による改変が大きいと考えるが、現状では最大幅約30m、長さ110mほどの規模を有する。こ郭西斜面には基本的に三段に腰郭が置かれている。腰郭と腰郭の間には竪堀が置かれる。二の郭肩部には各所に石積がある。これは肩部の補強として築かれたと見られ、山内で産出する片岩と荒川の川原石を使用して築いているのが特徴である。石積の築き方は鉢形城の三の郭土塁のものと変わらない。 二の郭西下部には腰郭と竪堀、横堀が置かれ、土塁には折りが見られるなど、ここが主要な通路であった可能性を示す。竪堀を南方面へ下りると、いわゆる「大手桜」に到達できる。この郭西下の腰郭には各所に径20cm程の川原石が散乱しているのが目に付く。合戦に伴う投石用として荒川から持ち上げたものだろう。このような川原石の存在は、永禄12年(1569)の秩父三山合戦で活用されたと伝える小鹿野町 三山の「石打砦」伝承地にもあった。 <歴史> 城の南側丘陵内、法善寺裏等には、天然の銅を産出する地点もあり、古くから、武蔵七党の1つ丹党白鳥氏の根拠地として、そして、中世室町期には阿保氏、あるいは岩田氏の支配地として開発が行われた地域である。法善寺は藤田康邦を開基と伝え、康邦の墓と称する寄せ集めの5輪塔も存在する。一方、永禄元年「北条家朱印状」に「天神山御ろう母」と藤田右金吾業繁の妻の在城が知られる。あるいは藤田業繁が康邦(祖繁)に家督を譲った後に移り住んだ居城であったのだろうか。「新編埼玉県史」「乙千代判物」にみられる「今度高松自檜山罷出候面々」からは、北条氏邦への家督譲渡後も藤田日山の館に住していた泰邦と妻、子邦房が、泰邦が天文23年(1154)に没した後、永禄3年(1560)の長尾氏出陣に際して、藤田邦房を主体とする日山や天神山の藤田本流が随陣したことが考えられる。「秩父風土記」には天文年中には猪俣能登守兼帯、後に藤田右衛門にゆずる。明治初期に秩父の医師が記録した「秩父志」には天正の初め北条氏邦室居城。「関八州古戦録」に天文17から18年頃「秩父郡井戸天神山ノ藤田右衛門佐邦房1番ニ旗ヲ巻テ降人トシテ出来レリ」「豆相記」には天文20年(1551)北条氏康の旗下となるとそれぞれ記されているが明確なものはない。一方、永禄3~5年(1560~62)とみられる秩父衆の高松城立てこもりがあった「秩父一乱」時には、永禄4年(1561)と推定される北条氏康書状によれば北条氏康は山内上杉氏の配下にあった大石氏の一族、三田氏の辛垣城を落城させた後に秩父に進軍し、日尾城とともに重臣藤田氏の拠点の城郭、天神山城を攻略したことを記している。天神山城への北条氏邦入城の年代について明確にできないが、この頃が1つのポイントとなろう。さらに、氏邦はその後鉢形城に移っているが、その年代は氏邦が朱印を使用し、永禄5年に終息した「秩父一乱」を乗り越え、北武蔵西北部を支配下に置いた永禄7年頃と推定される。 <関連武将>藤田康邦、北条氏邦</関連武将> <出典>関東の名城を歩く南関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)</出典>八王子城と言えば、北条氏照が築城して、秀吉の小田原の役で、不在中に前田利家や上杉景勝などの大軍に攻められ、多くの家臣が討死したことで有名です。下山治久の本などを読んで、織田信長の関東への進出時に、北条氏政は北条氏照の家臣も派遣し、北条氏は織田信長に降伏する道を選んだと思われるが、その後の展開では、豊臣秀吉に対しては、北条氏照は徹底抗戦を主張し、小田原の役で、切腹させられる。北条氏照は、信長の安土城を見てきた家臣の意見を聞いて、八王子城を安土城に習って石垣の城にした とされている。その時は北条氏照は、信長の権力の大きさを認識していたはずで、小田原の役で徹底抗戦の道を選んだのだろうか。八王子城の石垣は安土城の石垣の組み方と異なり、関東の他の城と同じ関東風の組み方だといわれる。そうであれば、北条氏照は関西の勢力に従うつもりはなかったのではないだろうか。 <地図> 八王子城は、東京都の西郊、八王子市元八丁子町三丁目および下恩方町にまたがる関東山地の東端部に立地している。JR中央線高尾駅の西北約3キロメートルの位置にある。関東山地東端部は、南・北浅川およびその支流によっていくつかの丘陵に分断されているが、そのうちの北浅川と城山川に挟まれ、山岳部から丘陵部となる付近に位置し、独立峰的な急峻な地形をなす深沢山が、地元では城山と呼ばれている八王子城の要害である。西側背後には、甲武国境をなす7~800mの連山が控え東方眼下には八王子盆地が、さらに東は武蔵野台地、南は相模原台地に向かって開けている。厳冬の空気の澄んだ日に、要害に登ってみると、広大な武蔵野のはるか北方に筑波嶺が、相模原の南方には江ノ島方面が見渡される。北条氏の支配領域のほぼ全域が望まれるのである。 <遺構> 八王子城は、豊臣秀吉の来攻に備えるために築城されたもので、要害部を中心に、その城城は広大である。北は恩方方面に抜ける滝の沢で、南は太鼓郭と呼ばれる遺構をはじめとする防御施設の造られている外郭にあたる尾根筋の南側の御霊谷川で区切られ、西は詰の城西側の遺構群で、東は根小屋地区といわれる城山川の谷筋の入り口部で区切られている。このように最小限に見積もっても、南北1キロ、東西16キロにもおよぶ範囲とされている。そのため、細部にわたる縄張研究は、必ずしも明らかになっているとはいえないが、おおむね次のような地区割りで考えることができる。本丸と呼ばれている主郭を中心とする要害地区、北条氏照の居館があった御主殿跡と郭群ののこされた居館地区、居館地区の東側に延びる寺院や家臣屋敷跡の伝承をのこす根小屋地区、根小屋地区の南側尾根筋にのこされた外郭の防御地区である。標高約460mの山頂部が本丸と呼ばれている狭小な主郭である。北東側には小宮郭、南東側に松木郭と 呼ばれる第二郭を配し、西側のやや下った所に無名の郭を配している。主郭下から小宮郭・松木郭の間は三段の腰郭が取り巻いているが、そのうち最下段の広い部分は、昭和32年試掘調査が行なわれ、舶載陶磁器などが出土している。主郭内側の崖際に井戸があり、小宮郭から北側に延びる尾根には搦め手口を防御するために、高丸・櫓台と呼ばれる削平地が設けられている。また、東側に延びる尾根には、柵門跡・金子丸と呼ばれる柵平地があり、それより南側の小宮郭から下る尾根には、櫓台と相対する位置に山王台と呼ばれる削平地が設けられている。無名の郭を西に下ると、大堀切があって、各郭の下側を通って一周する馬場道と呼ばれる古道がここで結ばれ、馬冷やし場と呼ばれている。さらに掘切を渡り、西側の尾根道を登って行くと、所々に削平地があり、主郭と相対する位置に大天守と呼ばれる詰の郭がある。その西側は巨大な堀切が施され、要害の西限となっている。北条氏照の居館のあった御主殿跡は、山頂の主郭部分の南東側、比高約200m下に設けられている。斜面を切り崩し造成した南北約60m、東西約11mの長方形の郭を石垣積みの擁壁で囲い、その上に土塁が積まれている。東北の隅に桝形の虎口が設けられていて、中ほどの踊り場に門を持つ石段を降りて直角に折れると曳橋に至る。御主殿跡は、平成4~5年に発掘調査され、多大な成果がもたらされている。まず、内部には二棟の大型礎石建物を中心にいくつかの付属建物が発見された。西側の建物は、東西に長い6間×11間の規模である。南側号石敷きの通路があり、北側には砂利敷きの通路を隔てて、大小の岩を配した庭園がある。背後の山を借景にした枯山水の庭園と考えられるところから、この建物は庭園を望む会所、つまり接客のための建物と想定される。一方、東側の建物は、さらに大規模で、9間×15間ほどの規模になると考えられ、南東に張り出し部をもっている。広間を含む主殿にふさわしい建物である。両者とも、落城時の炎上により礎石には角柱を据えた痕がのこって おり、柱間の寸法は基本的に1.9mであったことが知られる。この二棟の主要建物の周囲には、数棟の小規模な礎石建物や掘立柱建物などの付属建物が取り巻くように存在しているが、今のところ未発掘区にかかっていて、それぞれについては全体像が把握されていない。しかし、これらの建物群はまったく垂複しておらず、また改築されたようすもみられないので、一時期の建遺物群と考えられる。しかも、その様相からは、令体として使用期間が短かっかことが窺える。 <歴史> 八王子城は、北条氏康の次男北条氏照晩年の居城であり、築城年代は天正10年代と考えられ、天正18年(1590)6月23日に、豊臣秀吉の小田原攻めの一環として、前田利家・上杉景勝らの北国勢に攻められ落城した。北条氏康は、天文15年(1546)の川越夜戦を経て、同21年に関東管領上杉憲政を越後に追いやると、武蔵一帯をその勢力圏とした。そして、上杉憲政を擁する越後長尾氏に対抗するために、上杉氏の武蔵守護代を務めた大石氏を次男氏照に継がせ、入間・多摩郡を中心とする西武蔵地域を支配させることにした。北条氏照は、大石氏の滝山城を居城として、この地域の本格的経営に乗り出す。滝山入城の時期は、永禄2~3年(1559~60)のことである。その後、北条氏照は、居城を新しく築いた八王子城に移すことになるが、その時期は天正14年末と推定される。八王子築城は、豊臣秀吉の来攻に備えるためであった。築城開始の時期は、早くても天正12年だと思われる。この年、北条氏は秀吉の来攻を意識し始めて、 小田原城を始め、武蔵・相模・伊豆の諸城の修築を開始するからである。そして、天正14年末、秀吉が「関東・奥惣無事」の扱いを徳川家康に命じたことが、諸大名に伝えられると、北条氏はにわかに緊張を高めていく。年末から翌15年にかけて領国内の総動員体制を固め始めるとともに、各支城の普請を始める。天正15年の正月からは、本城の小田原城の大改修工事が始まり、北条氏照も小田原に詰めていて、その監督に掛かりきりだったので、八王子城の方は、重臣の狩野一庵に任せて工事を続けていた。天正16年正月になっても、大工その他の職人衆に、八王子城の普請を特命していることを見ても、築城工事は急ピッチで進められた。小田原の役の際、北条氏照の留守をあずかる八王子城の狩野一庵たちは、利根川筋にある北条氏照の城、小山、榎本、栗橋、水海城の守備兵をも八王子城に集めて各曲輪の守備を厳重にするとともに、八王子城の周囲を固める檜原城や戸倉城をはじめ、砦などの守備を固めて秀吉軍の来攻を待ち構えた。天正18年(1590)6月22日、前田利家、上杉景勝、真田昌幸などの秀吉軍は八王子城外の四谷付近に着陣した。午後10時ごろ月明かりもあり、夜の行動が可能であったので、城近くに布陣し、朝霧の晴れるのを待っていた。前田利家は総攻撃を開始するにあたって、使者を城に送り、開城するように勧告したが、城方の決戦の覚悟は固く、返答の代わりに使者を切り捨ててしまった。城方の決断を知るや秀吉軍 はただちに総攻撃に移った。城の守りは、本丸を横地吉信、中の丸を中山家範・狩野一庵、山下曲輪を近藤綱秀、金子曲輪を金子家重らが主将となって籠っていた。攻め手の先鋒は大道寺政繁を主力とする上野衆で、朝霧の中を大沢川ぞいに城に接近、午前4時の総攻撃の合図とともに、ときの声を上げながら、山下曲輪に突入した。近藤以下の城兵の決死の抵抗により、両軍入り乱れての激戦となったが、やがて北条方350ほどが討死にし、近藤綱秀も討取られるにおよんで、山下曲輪は陥落した。前田勢の本隊は金子曲輪の攻撃に向かい、金子家重の奮戦も及ばず陥落し、家重は敵将山崎の配下に討取られた。金子曲輪の陥落に前後して、前田勢は中の丸の攻略に向かったが、急峻な山城である八王子城は攻めにくく、攻め手も相当の覚悟でもってこれに当たったのである。上からは大石や石弓の矢が降り注ぎ、相当の死傷者を出していた。中の丸には守将中山勘解由左衛門家範と将兵300ほどが立て籠っていた。前田方の大軍に攻め込まれ、猛烈なる激戦を展開してのち、ようやく前田利太らの活躍によって北条方は10数人となってしまった。もはやこれまでと、家範はのこりの兵とともに詰の丸に入り、婦女子を殺害したのち、壮烈な自刃をとげた。勇将のきこえ高い家範を失うのを惜しんだ利家は、なんとか助命しようとしたが、家範は自刃して果てた。上杉景勝の部隊は搦手の方向より攻め込み、本丸をめざした。本丸の守将狩野一庵の決死 の防戦も空しく、中の丸方面の加勢に出て、手薄となっていた本丸はわずかの時間で落ち、午後4時には八王子城は落城の悲運に遭遇した。 氏照の居館のあった御主殿曲輪にいた婦女子が、すでに命運もつきたと判断し、敵兵にはずかしめを受けるよりもと、次々と城山川御主殿の滝壷に身を投げたのはこの時であったという。氏照の重臣大石照基は本丸で壮烈な討死にを遂げ、横地吉信は城を脱出して、北西の檜原城に籠ったが、そのあと小河内で土民に殺された。このようにして、氏照が全精力を傾けて築いた八王子城は孤立無援のなか、わずか1日で落城したのである。 <関連武将>北条氏照 <出典>関東の名城を歩く 南関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)、八王子城主・北条氏照(下山治久)世田谷城址公園は、こじんまりした公園で、というより、城跡の周囲に住宅が建ち並んで、小さな公園になったのでしょう。豪徳寺はすぐ近くで、ここはかなりの敷地で、春には桜が咲いて華やかです。訪れたときに、かなりの人が訪れていました。思うに、NHKの大河ドラマで「おんな大名」の放映があった時期で、豪徳寺には、ドラマで出てきた井伊家の菩提寺(江戸時代でしょうけど)の関係で訪れる人が多かったようです。ここの城主は吉良氏で、戦国時代は、室町幕府の足利家の血筋で、後北条氏も大切にしたし、明確な血筋でもない徳川家康が征夷大将軍になるときに朝廷への取次をしたことで、徳川家では格式のある家にされていたが、忠臣蔵の事件の後は取り潰されてしまった家のようです。 <地図> 東急世田谷線の上町駅から北上すると、世田谷城址公園に着く。この公園が世田谷城の本郭跡で、この地は、比高7,8mの経堂台地の突出部にあり、南面を囲むようにU字状に東流する烏山川が自然の水堀となっていたようだ。 <遺構> 世田谷城は経堂台地が南に突き出し、その周りを烏山川がU字形に取り巻く中にあつた。中心部は城山と呼ばれ、土塁が二重に残り、空堀の跡もある。櫓の跡と思われる所も三か所ほどある。そして、豪徳寺の境内が吉良氏の居館の地であったといわれる。藤井尚夫氏によれば、世田谷城の現存する形態は天文6年(1537)に築かれた深大寺城とよく似ており、深大寺城と同様、北条・上杉両勢力が対峙す不安定な情勢を反映して修築されたものであるという。 <歴史> 世田谷の地は、室町の頃、吉良氏の治世下にあった。この吉良氏は忠臣蔵の吉良上野介と祖先を同じくした家で、西の吉良氏に対し、東の吉良といった。享徳の頃(1450年頃)には、吉良氏は関東管領足利氏の保護のもと、武州荏原郡、多摩郡を領し、その城下は、関東でも屈指の繁栄を誇った。足利氏ののち上杉家に仕え、特に太田資長に随身、各地を転戦。江戸城の留守居役などもしていた。その後、北条氏の勢力下にあっては、当主吉良頼康は北条氏綱の女崎姫を娶り、新たに久良岐郡蒔田郷を領し、蒔田城を築いた。天正18年の小田原役には出兵せず、江戸時代には千葉長生に領地を得て、これに移った。 <関連武将>吉良頼康</関連武将> <出典>日本城郭大系、日本城郭事典、むさし城址ウオーキング、埋もれた古城</出典>国道246号線から東名高速道路を横切って山を登ると、ミカン山が広がっており、眼下には、酒匂川の流域がつくる足柄平野が広がっており、松田城のそのような場所に構築されていた。西脇総生さんは、縄張り図を作成しておられるが、正直のところ、ミカン畠の造成のためか城の遺構を想像するのは難しい。 <地図> 松田城は、松田山から派生する尾根が南の酒匂川岸まで迫り、平地部分を著しく狭める場所に築かれている。つまり、穀倉地帯である足柄平野は当城の対岸にあり、城側には平地があまりない代わりに、松田山山麓が台地のまま酒匂川に接するため洪水の心配はないと思われる。渡河点と陸路を同時に押さえていたのだろうか。 <遺構> 最高所は1で、現地の案内板では1の背景に二本の堀切を描いているが、見当たらない。しかも1の背後は標高を上げていく。2と3の間に認められる堀切Aは、畠になっていてわかりにくいが、現状で幅15~16mの大きなものだ。Bは櫓台の可能性がある。Cに堀の残欠らしきものがあるので、この部分でさらに掘りきられていたのかもしれない。こう考えると、二重の堀切A・Cによって遮断されつつ、さらに 櫓台Bで守られるこの地点を城の北限とみることができるので、1・2は城外ということになる。4は当城最大の面積を持ち、主郭の可能性があるが削平は甘い。曲輪の内部は、さらに二つ程度に分けられていたのかもしれない。5の先は東名高速道路によって削られてしまっているが、1989年の高速道路拡幅に伴い行われた発掘調査により、実線で囲まれた内部が明らかになった遺構である。この斜面には細長い帯曲輪状の削平地群が築かれ、柵列・建物・土杭などが複数検出された。曲輪の幅が狭いので、柵と建物で立錐の余地もないような箇所もある。松田城が厳しい状況下に置かれていたことを明示している。また、堀Dは横堀で東に延びる尾根を切断し、さらに南へ竪堀となって落ち、城外と区切っている。5の直下にも横堀Eが検出され、現在、畠の段になっている部分に伸びていたようだ。 <歴史> 松田城が今の姿になった時期に関しては検討を要するが、筆者は上杉謙信(長尾景虎)による小田原攻めがあった永禄3年(1560)頃を想定している。この戦いでは隣接する秦野市や近隣の南足柄市怒田でも戦闘があった一方、基本的に北条氏は野戦での迎撃を諦めて各地で籠城戦術を採っている。周辺に戦火が迫るに及んで、城を捨てて小田原城などの大規模城郭へ撤退したとは考えられないだろうか。当時の小田原城下は、障子堀を巡らせた屋敷が建ち並び、さながら家臣ごとの小城郭が並んでいるかのような景観だったことが発掘調査でわかってきている。上杉勢により城下が焼き払われた後は、それらを廃し、小田原本城に防御を集中させるという発想の大転換があったようだ。推測の域を出ないが、こうした発想の転換-すなわち、小田原城が堀囲みの屋敷を廃したように、松田城のような中途半端な規模の城は廃して拠点的な支城に兵力も労力も集中する。このような防衛方針の転換は、上杉勢の略奪で全土が荒廃した相模、引いては北条氏の分国全体に及んだのではなかろうか。 <関連武将>松田盛秀</関連武将> <出典>神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>枡形城址に電車で行くには、小田急線の向ヶ丘遊園駅から生田緑地方面へ歩きます。生田緑地の丘陵に近づくと、正面に日本民家園の入口が見えてきますが、その少し手前から右に山道をたどって行きます。途中の左側に郭址らしい地形もあります。頂上に近づくと広い平地の端に城の塀を模したものが現れ、入口には門も復元されています。この平地には、北側には、りっぱな枡形山展望台の建物があり、その上からは眺望がききます。戦時中には高射砲陣地があったということで、この場所が周囲より高く、平坦な地形 だったからでしょう。枡形城の石碑は、その展望台の近くの樹木の脇にあります。帰りは南側へ尾根道があり、この尾根道は両側が崖で掘切があったらしい。尾根道を進み分岐に出ると左の坂道を下りて行くと、民家園の昔の建物を外から左にみて、民家園の入口近くにつきます。この付近には紅葉も大きな木があり、秋が深まった頃は美しい紅葉が楽しめます。 <地図> 桝形山は鎌倉道の多摩川の渡しの一つである大道の渡しを西下に見下ろす多摩丘陵支脈の東端にあり、北は丘陵に沿って東流する多摩川、南はかっては沼地(現在は日本民家園)で要害の地形をなしていた。『新編武蔵国風土記稿」には「桝形山」とし、「(菅生)村の東にあり、登ること凡二二町程にして、頂に至れば高平なり。眺望いとよし。なお、広福寺から山頂に至る道は暗閣坂と呼ぱれ、切通状になっており、山頂に建する手前は道の両側が削られ、やせ尾根状の険しい道となっている。桝形山は恒久的な利用 を日的として整備された城郭とは考えにくい。多摩川に沿った、にわか陣場の一つとして利用されていたものであろう。 <遺構> 永正元年(1504)に起きた立河原の合戦に際して、伊勢宗瑞が布陣したことが「松蔭私語」などに見える。また、永禄12年(1569)に武田信玄が侵攻した際、当地の土豪である横山弘成が籠城したと「新編武蔵風土記稿」は伝える。標高84m、比高約60mの枡形山は、山頂部が屹立していて多摩川の眺望に優れるうえに、山頂部は100m四方ほどの広さがある。しかし、尾根上に埋没した堀切らしい箇所がある程度で、明確な城郭遺構をみとめることはできない。大きな普請を加えなくても、布陣地や臨時の城砦として利用することは可能だったのであろう。 <歴史> 永禄12年武田信玄小田原へ乱入のとき、今の名主忠左衛門が先祖横山式部少輔弘成、此所に塁を築て北条家の為に守れりと云。小田原記を按るに、信玄は此時平間を渡て稲毛十六郷を放火せしこと見ゆ。この辺もかの十六郷の内なるにや。又土人の説に稲毛三郎が城跡なりと云。もし然んには横山もかの旧跡をとりたてて累とせしにや」とある。鎌倉幕府の御家人稲毛三郎は、小山田荘の別当小山田有重の息子で、北条時政の女を妻とし、稲毛庄を東側へ大きく拡大した。北麓の広福寺は稲毛三郎館跡とされ、彼の墓石という五輪塔があるが、「新編武蔵国風土記塙」は、これを「うけ難きものなり」としている。また、「宗艮手記」「松蔭私語」によれば、永正元年(1504)、伊勢宗瑞が駿河の今川氏親と共に扇谷上杉朝良を助け、関東管領の山内上杉顕定と府中立川原で合戦した際、その前夜、桝形山に野陣したことが記されている。 <関連武将>伊勢宗瑞</関連武将> <出典>日本城郭大系、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>この城跡は、広範囲に遺構が復元され、鉢形城歴史館も作られており、ゆっくりと歴史を思いながら散策することができます。何度か訪れたことがあるのですが、初めの頃は、荒川側の郭址の一部しか整備されていなかったのですが、今は、ほぼ城域に近い範囲が公園化され、復元保存されています。また、公園内には、季節によってはやまつつじが美しく咲いていることもあります。 <地図> 【荒川と鉢形城】 秩父山地を縫うように流れてきた荒川は、大里郡寄居町で関東平野へと注ぎ込む。上流の長瀞町野上に産出する緑泥石片岩は、古墳の石材や中世の板碑の材料として切り出され、荒川を利用して運び出されたものと推測されており、荒川の水運の発達は古くから盛んであった。江戸時代においても江戸に向けての材木や薪炭の輸送のために荒川の舟運が盛んに利用されたことが知られており、各時代を通じて、この地が交通の要所として重要な役割を担っていた。城は、荒川を臨む切り立った断崖と、支流の深沢川に深くえぐられた渓谷に挟まれた河岸段丘上に形成されている。時代が下がるとともに 周辺地域に郭を拡大するとともに寺町や城下町などが形成されていった。現在、中核部分は国指定史跡にふさわしい整備が進められている。本郭周辺は、以前埼玉県農林総合研究センターの圃場があったことから、さまざまな樹木が植栽されており、四季折々の彩を味わうことができる。郭の一角には鉢形城歴史館が作られ、鉢形城の紹介を行なっている。 <遺構> 北条氏邦は鉢形城の城主となると大改修を行い、本曲輪、二の曲輪、三の曲輪(秩父曲輪)など上杉氏以来の曲輪の改修を行うとともに、周辺の外曲輪、逸見曲輪、大光寺曲輪と拡大を行ったと思われる。現在、目に見える鉢形城の土塁や堀の大半は北条氏邦段階の造成によるものであろう。三の曲輪は、北西部分が最も高い位置にあり、東に傾斜する地形となっており、大きく三つの空間に分けられる。最も高い空間からは池遺構や掘立柱建物跡が確認された。池遺構などの存在なとから「ハレ」の場としての空間が想定される。その東側の空間からは柱跡、柵列が多数確認された。この空間とさらに東側の低位置との間には、石組溝、柵列、門跡、石階段などの施設が確認された。門の内側の空間は居住空間と推測される。門の外側の空間には、門に向かう石段と馬出(諏訪神社)に向かい通路と虎口となっている。堀と土塁の発掘調査では、現在の状況とは大きく異なるなる姿が明らかになった。二の曲輪と三の曲輪を区画する堀の調査では、堀底には畝状の高まりがある畝堀であることが分かった。伝御金蔵曲輪は、北条氏系城郭の特徴とされる「角馬出」で馬出の内側は石積の段造りとなっている。三の曲輪北側の土塁は、土のみで造成されたものと考えられていたが、内側に三~四段の階段状の石積が造られていた。石積の土塁を始めとして門、階段、溝など随所に河原石が多用されていることが分かった。角馬出、畝堀など北条氏に関連した城郭に共通する遺構が確認されるとともに、石を多用した築城は注目される。この石積については、北条氏に関連する城郭の発掘調査では、その事例が増えており、北条氏の築城技術を考えるうえで重要な要素のひとつといえよう。笹曲輪の調査では、1メートルほどの石材を使用した石垣が確認されており、同様な石垣は大手付近の馬出でも認められている。この石垣は三の曲輪で多用された小形河原石とは異なるものであり、徳川期に入城した成瀬氏によるものであろう。 <歴史> 鉢形城が歴史のうえで明らかになるのは、文明8年(1476)6月に長尾景春が、鉢形城で主君上杉顕定に反旗を翻した時であった。このような歴史事象から、鉢形城の本郭などの主要部分は長尾景春により築かれたとされる。長尾景春が鉢形城を本拠地とした理由には、武蔵、上野の両国を支配するのに適した位置にあるとともに、長尾景春の従兄の所領が秩父に存在するなど秩父と長尾景春と結びつくところが多く、その接点としてやはり鉢形の地が重要な位置であった。鉢形城に拠点を構えた長尾景春は、その後五十子陣の上杉顕定を襲い、上杉顕定、上杉定正らを上野に退去させた。しかし、上杉定正の家宰太田資長が各地の長尾景春軍を鎮圧し、文明10年(1478)には、太田資長により鉢形城は攻略され、長尾景春は秩父に逃れ、鉢形城には上杉顕定が入ることとなる。この頃以降、鉢形城は山内上杉氏の拠点となり、扇谷上杉氏の拠点である河越城との間に戦いが展開されることとなった。両上杉氏の抗争も、北条氏の勢力拡大のなかで次第に様相を変えて行き、鉢形城もその渦中のなかで変貌を遂げて行く。天文15年(1546)山内上杉憲政と扇谷上杉朝定は、北条氏康と河越において衝突し、両上杉氏は退廃することとなった。そのころ、鉢形城は、上杉氏の家臣である藤田氏が管理していたとされる。藤田氏は武蔵七党の一つである猪俣党の出で、山内上杉氏の重臣であった。河越合戦後、北条氏に服属し、北条氏康の子北条氏邦を養子に迎えた。北条氏邦は当初秩父の天神山城に入り、その後鉢形城に移ったとされる。その時期は永禄6、7年頃とも永禄11年(1568)頃ともいわれている。北条氏邦は小田原城中で行なわれた豊臣軍に対する作戦会議で出撃論を主張したが、籠城派に破れて、鉢形城に帰って籠城したという。天正18年(1590)5月13日から鉢形城は前田利家・上杉景勝らにより攻撃が開始され、その後、浅野長吉らも攻撃に加わり、6月14日に降伏し、鉢形城は開城する。徳川家康の関東入国後には成瀬正一氏が入城したが、その後あまり時期を置かないで廃城になったと推測される。 <関連武将>長尾景春、上杉顕定、北条氏邦</関連武将> <出典>関東の名城を歩く南関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)</出典>この城址は、青梅駅からも近いので訪れ易い場所にあります。師岡神社の石段を上がって行くと、右手に墓地があり、墓地の間をさらに登って行くと2郭の南側の平地があり、松沼駅方面の展望がききます。そこから、やや埋まってしまった空堀や土塁を巡らした3郭、2郭、1郭址を見ることができます。ほとんどが樹木が茂っていますが、下草は多くないので、見通しはききます。勝沼城は戦国時代には、関東管領上杉氏の重臣でこの地方で大きな勢力を持っていた三田氏の居城でした。後北条氏が江戸城から川越城に攻めていって、川越合戦で優位に立つと、三田氏は北条氏方になったが、越後の長尾景虎が越山してくると、そちらに鞍替えしたため、北条氏に攻められ、勝沼城より山奥の辛垣山城に立て籠もるが、そこも攻められて、滅亡してしまう。 <地図> 勝沼城は、国鉄青梅線東青梅駅から北方約600m、東西に延びる加治丘陵の一支脈の先端部を占める東西400m、南北170mm、比高約30mの平山城で、多摩地方では八王子・滝山城とならんで戦国時代盛期の優れた城であると評価がある。 <遺構> 勝沼城は、主に3つの大きな郭からなり、いずれも横堀が巡らされている。主郭である「1」は真ん中にある郭で、周囲には土塁が見られる。「1」の東側にあるのが、「2」で、南側に虎口が明瞭に残っている。その虎口を出ると変形の小さな馬出がある。東側の墓地になっている小さな方形の郭も堀で囲まれており、馬出あるいは外枡形の可能性が指摘されている。横堀も折れを伴うものであり、形も直線的で整ったものとなっている。「1」の西北側にあるのが「3」である。西側に土塁と横堀が巡らされており、その向こうの土橋状細い道に対して郭内から常に横矢がかかる厳重な構造となっている。土橋状の道は途中で竪堀によって道幅が狭くなり、そこから90度曲がって「3」の虎口へ入るようになっている。このほかにも、「1」から「3」の外側には小さな郭が数多く配置されていて、竪堀状の遺構も一部みられるなど、非常に凝った縄張りになっている。 <歴史> 勝沼城は、この地域の有力領主・三田氏の居城である。三田氏は、関東管領山内上杉氏の被官で、三条西実隆などの公家とも交流をもつなど、文化人として遠く京の都にも名が知られた氏族であった。その後、北条氏が進出してくると、三田氏はいったん北条方となる。大永4年(1524)には、山内上杉憲房と対立する北条氏綱が勝沼に滞在していたことがわかっており、その頃には三田氏は北条方となっていたことがわかる。永禄2年(1559)成立とされる「小田原衆所領役帳」という北条氏の家臣とその所領・貫高を書き上げた史料にも、「他国衆」として「三田弾正少弼(綱秀)」が登場し、507貫900文の知行高が記載されている。ところが、永禄4年(1561)3月び上杉謙信が関東に出馬して北条氏を攻撃すると、他の諸氏と同様、三田氏もそれに応じて北条氏のもとを離れて上杉方になったのである。小田原城を包囲した上杉謙信だったが、ほどなく撤退すると、その直後に北条氏はすぐさま反撃に転じ、両軍は同年7月に勝沼城周辺地域で対峙していることがわかっている。辛垣山城に籠城した三田氏だったが、直後の永禄4年9月、北条氏によって辛垣山城は落城し、三田氏もついに滅亡した。これより、旧三田領は北条氏照領となるのだが、その後もしばらくの間、勝沼城は北条氏によって使用された可能性がある。永禄5年(1562)3月、上杉謙信が下野国佐野を攻撃する際、北条氏照が加勢をするため勝沼城に在陣したと思われる。北条氏照は当時滝山城ではなく由井城(浄福寺城・八王子市)を本拠としていて、由井・勝沼を通り鉢形(埼玉県寄居町)方面へと続く「山の辺の道」が重要幹線として機能していたという。三田氏滅亡後、勝沼城には北条氏照の部将師岡将景が入り、師岡城と改め、土地の名も変えたという。 <関連武将>三田綱定、北条氏照</関連武将> <出典>関東の名城を歩く 南関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)、日本城郭大系、多摩丘陵の古城</出典>小机城址は、サッカー場の日産スタジアムの近くのJR横浜線を蛇行している鶴見川に挟まれた丘陵上にある。一番の見どころは大きな空堀である。竹林の中の空堀の下から上部の郭址を見上げるとその要害性を実感できる。小机城は良く史料に現れるが、長尾春景の乱で大田道灌(資長)が鶴見川の傍に砦を築いて劣勢の軍で、長尾景春の与党の籠る小机城を攻略したことが印象的である。 <地図> 「鶴見川中流域の主要城郭」JR横浜線小机駅を下車し、畠と住宅地を抜けた徒歩十五分ほどのところに「小机城址市民の森」がある。これが小机城跡である。第三京浜国道とJR横浜線とに挟まれ、昭和39~40年(1964~65)にかけて行なわれた国道の工事によって遺構の一部を崩されてはいるが、鬱蒼とした森に包まれた城跡は、往時のようすを想像するにふさわしいたたずまいである。 別名を飯田城・根小屋城といい、また地元では城山と呼称されていたという。この小机城は、南からのびる独立丘陵が鶴見川に突出した先端部に、川の中流域全体を見渡す地点に位置し、また東西を湿地帯に囲まれた天然の要害である。南側には神奈川湊から武蔵国府中に続く飯田道が通っており、南武蔵を代表する城郭の一つである。小机城は詳細な発掘調査をされておらず、その正確な構造は不明であるものの、「九世紀初頭に編纂された『新編武蔵風土記稿』に「東ノ方大手ノ跡ト云所ハ今モ打ヒラケタル地ナリ、又搦手ノ跡ニハ土人城坂ト呼フ坂アリ、其余鐘ツキ櫓ノ跡ナリトテ高キ台アリ、此所八本丸ノ郭外ナリト云、本丸ノ内ト云所二井戸ノ跡モアリ、今ハ埋タレトモ、猶其形ハ明ラカニ見ユ」と見え、大手跡および搦手跡、鐘突櫓などがあったことが分かる。また複数回の遺構確認等により多くの情報が提供されている。ここから、小机城の構造を見てみたい。まず城には東西の両郭とその間に細長い帯郭、国境を挟んで西側の櫓台等があり、城域はさらに横浜線を挟んだ南側にも広がっていたようだ。このうち東郭は楕円形で周囲を土塁で囲まれており(現在は西側の土塁一部のみが残存)、直下に集落を構えるところから二の丸に相当しよう。南側に虎口跡と南西端には櫓台跡があり、現在は模擬の櫓台が建っている。かつては東側下部にも湧水のでる帯郭があって、その東北側に二ヵ所の櫓台が認められたという。 また西郭は方形であり、周囲に空堀と土塁がめぐっていたが、土塁の西側は国道工事で崩され、東側半分も崩れている。東と南側に虎口跡があり、東側のものは桝形の形状であったと考えられている。井戸跡が東寄りにあり、前述の『新編武蔵風土記稿』の記述から、この西郭が本丸に相当すると考えられている。さらに、郭の南側には屈曲した土橋、所謂「食い違い虎口があり、橋は幅五メートルの楕円状小郭に 続いていたという。この西郭が中世後期の築城形態であるのに対して、東郭は比較的古体の様相をとどめていて、二つの郭の成立年代に差違が認められるという。さらに、東西の郭に挟まれた細長い帯郭は一段高くなり、東西両郭をつなげていたようだ。一方、国道の西側に位置する出丸部分については、城の遺構は確認できていない。『新編武蔵風土記稿』に鐘突櫓の跡があると記されるが、現在は「五メートル四方の墳丘状の高台と文久年間(1861~63)の「富十仙元大菩薩」碑が建っている。 <遺構> 小机城は、鶴見川に向かって突出する丘陵の先端部に築かれているが、この丘陵は複雑に開析されて谷戸がいくつも入り組んでいるので、半独立丘のような地形となっている。このため、城のある丘陵は東・北・西の三方を鶴見川の氾濫原に囲まれており、四周の眺望にもすぐれた要害の地となっている。城の主要部分は、東西の二つの曲輪とその間にあるつなぎの曲輪3、これらを囲む巨大な横掘からなる。 西の曲輪1は、四角い平面形をなして全周を土塁で囲み、主軸は正確に東西南北の方位に乗る。東側に大きな折れがあって、突出部は枡形虎口を形成していた可能性がある。南側にも側面に櫓台を伴う虎口があって、この虎口から土橋を渡った対岸には、帯曲輪を掘で刻むようにして角馬出Aを形成している。対する東の曲輪2は、長方形に近い平面を呈するものの、西の曲輪に比べれば不整形である。 南東側に虎口が開口し、西隅には櫓台も残るが、総じて後世の耕作による土塁の切り崩しが進んでいる。二つの曲輪の間にあるつなぎの曲輪3は南北に細長く、東西の曲輪よりやや高い。これらの曲輪群を取り巻く横掘は、幅が広いところで20mを優に超え、深さも十分で、敵を囲む強力な障害となっていることが実感できる。横掘の外側にも、たくさんの腰曲輪が展開している。後世の耕作などによる改変が多く、どこまで旧態を留めているか判断が難しいが、本来の登城路はこれらの腰曲輪群を経由していたものであろう。東の曲輪の北東側と南西側には、横掘の外側に独立して戦闘可能な櫓台が構えてある。 <歴史> 小机という地名の初見資料は、『吾妻鏡』の延応元年(1239)に佐々木泰綱に小机郷鳥山の開発を命じたものであり、その後14世紀後半~15世紀半ばにかけて「小机保」内の郷や名の寄進、所領宛行が資料に見えるところから、14世紀半ばには武蔵国内にその地域がほぼ確立していたと考えられる。一方、軍事的施設としての小机城がいつ頃築城されたかは定かではない。応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に際 して、『鎌倉大草紙』には、鎌倉公方の地位をねらう足利持氏の弟・持仲の軍勢が、小机辺まで出張したとみえる。また「太田道灌状」や『管領鎌倉九代記』には、文明8年(1476)に山内上杉氏の家宰職をめぐっで、古河公方と結んで武蔵国鉢形城で蜂起した長尾景春の乱の中で、扇谷上杉氏の重臣・太田資長が、長尾景春に与同した豊島泰経を平塚・石神井城に破り、同10年(1478)に「小机要害」に龍もった豊島氏や長尾景春の被官矢野氏を破って乱を鎮圧したことが記されている。ここから小机城は、少なくとも15世紀には何らかの要害として構築されていたことが伺えよう。乱の状況について記した古河公方足利成氏書状写には「下武蔵事は、御方者共小机要害へ馳龍り候の処、去る28日、太田道灌差寄せ陣を取り進らせ候」とあり、豊島氏・矢野氏以外の「(下武蔵の)御方者共」も小机要害に寵城して、両上杉勢に叛旗を翻していたと想像される。そしてこの時小机城に景春勢が集結していたということは、南北朝・室町期の小机城が、下(南)武蔵の拠点として、山内上杉氏の家宰・長尾氏によって支配されていたことを示していよう。この後、小机地域は景春と家宰職を争った長尾忠景が支配し、忠景は神奈川湊の権現山城(神奈川城・横浜市神奈川区)に在城して小机地域を所領としていった。小机の年貢公事等は「成田三河入道」によって徴収されており、小机城には長尾氏の城代として成田氏が入城していたとも考えられる。後に『小田原衆所領役帳』では遠藤・小野・陰山・金子ら小机衆を「元成田衆」と記している。16世紀初頭に関東に進出した小田原北条氏は、永正7年(1510)の権現山城(神奈川城) の合戦を契機に、相模国から南武蔵地域へと進出を始める。そして永正13年(1516)には三浦道寸・義意父子を新井城に滅ぼし、初代の伊勢早瑞(北条早雲が死去すると、二代目・氏綱は大永4年(1524)に扇谷上杉朝興の居城・江戸城を攻略した。この頃より北条氏による小机地域の支配が確立したと考えられる。小机城は北条領国の支城の一つとして、現在の横浜市北部と川崎市域に相当する、多摩川以南を「小机領」として統括していった。当初の城主は玉縄城主が兼務し、城代として 笠原信為が入城したという。その後、弘治3年(1557)に信為が死去すると、北条氏綱の甥・北条三郎が城主となり、三郎の後は氏尭・氏信・氏光と続いていく。 永禄2年(1559)作成の『小田原衆所領役帳』には、城主三郎を初めとする29人の「小机衆」が、その所領および知行高・軍役と共に記されて軍団を形成しており、小机城は小机衆とその知行地とを一括して管理する拠点となっていたようだ。三郎の所領は城周辺地域の他、小机と武蔵国府中を結ぶライン上にあり、また城代笠原氏は神奈川湊付近を、上田氏は小机領の西部、増田氏は江戸領と接する多摩川沿い を得て、領内を固めている。その他の在地武士の所領の多くは、鶴見川北部に集まっていたようだ。天正15年(1587)7月、豊臣秀吉の関東襲来が近づく中、四代・北条氏政は領国内に総動員令を発布し、小机領内の15~70歳までの成人男子に対して、「来る四日に小机へ来り、公方検使の前にて着到に付き、罷り帰るべし」と、小机城に集まって戦闘員としてのチェックを受けるように命じている。 このような領内の軍事拠点として機能した小机城には、しかし豊臣勢との戦乱や落城の記録はなく、小机領内の村々や寺社に、同18年4月付の秀吉禁制が多くのこされているのみである。 <関連武将>太田資長</関連武将> <出典>関東の名城を歩く(峰岸純夫・齋藤慎一)、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>この付近は、今でも南西方向に荒川があり、東北方向には忍川が流れており、城の南にある水城公園は水面と道路面の差がわずかしかなく、標高も高くない場所であることがわかる。石田三成が秀吉の水攻めをマネして古墳を壊して堤防で取り囲んだが、失敗した。この堤防の一部は今も残されている。三成の戦がうまくなかったとの例に取り上げられるが、実際は、秀吉の指示だったようだ。成田氏は古くからこの領域に勢力を張ってきた一族で、長尾景虎の無知で、鎌倉で侮辱し、敵にしてしまい、結局は長尾景虎 (上杉謙信)の越山で関東の支配が失敗に終わったこともあった。小田原北条氏は味方になった成田氏を優遇した。 <地図> この城は、利根川と荒川に挟まれた沖積地にあり、起伏のほとんどない平坦な地形に立地している。標高は20m前後で、城址は一面湿地帯であったと考えられる。忍城域の築成は中近世の時代から南方の埼玉古墳群の古墳盛り土を運ぶなどして行なわれたと考えられ、昭和に入っても引き続き行なわれ市街地が整備された。現在は忍の浮城といわれた往時の面影は見られず、市役所や城跡公園となっている。 永正6年(1509)連歌師宗長が成田氏の館に立ち寄った時のようすを『東路の津途』に次のように記した。「武州成田下総守顕泰亭にして(略)水郷也、館のめぐり四方沼水幾重ともかく芦の霜がれ二〇余町四方へかけて水鳥おほく見え渡りさまなるべし」。 <遺構> 城地や城下の造成は沼地の掻きあげや埋め立てによって行なわれたと考えられるが、本丸の発掘調査で地盤補強材には竹を筏状に組んだものを使用し、法面保護にも使用していることが確認されている。城跡については文政年間作成の絵図が全体像を知る唯一のものである。絵図に見られる忍城は四方を沼に囲まれた連郭式(郭が団子状に連なっている)の城郭で東側に水堀の中に長方形の出郭を配し、大手門を置いている。掻き上げ道(湿地を掘り上げて土盛りし作った通路を伝わって三の丸へと連なる部分に徳川家康に より褒められたと伝える縄張が見られる。博物館建設に伴って近世の本丸部分が発掘調査され、いくつかの新たな知見が得られている。発掘調査は本丸と諏訪曲輪にわたって行なわれ、絵図に見られる堀と橋を確認し、本丸門城内からの排水を出すための板碑によってふさがれていた暗渠排水溝も確認した。また、土塁裾や切岸面にあった筏状の竹束の発見など、多くの出土遺物とともに白紙に近かった城の実像を浮き彫りにした。本杭の残存によって確認された橋は15世紀末~16世紀の掛け橋、天正18年忍城開城後のものなどが認められている。特に二回目の橋は堀を埋めて堀幅を狭くして架橋している。南堀では15世紀末から16世紀初頭、16世紀末、18世紀の三回の橋の付け替えが確認されたという。また、二の丸西堀の調査では障子堀などが認められている。出土品は15世紀末から17世紀初頭の土器、陶磁器を中心として多くの板碑、漆器、曲物、下駄のほか近世の瓦などがある。中でも人形のアワビの殻の出土は興味深い発見 であった。忍城の歴史や成田氏の説明とともに出土品は城内本丸跡に建てられた行田市立郷土博物館で見ることができる。 <歴史> 成田系図によれば平安時代に武蔵国守藤原基忠を祖とし、その後騎西郡や幡羅郡域に勢力を拡張した一族で成田犬夫助高の子から別府・奈良・玉井の各氏が別れたとされる。成田氏の鎌倉時代の活躍は、寿永2年(1183)に木曾義仲追討の源義経に従った五郎助忠(行田氏祖)や承久3年(1221)に宇治川合戦で討ち死にした資泰らが知られる。熊谷市成田を本拠としてこの地域を支配した成田氏は、その後忍に本拠を移し、室町・戦国時代を通じて埼西郡域の支配者として君臨した。忍城については享徳の大乱の中で古河公方足利成氏が別府宗幸に文明11年(1479)に送つた書状によって知られ、成田顕泰が忍城にあってその防備の任についていたことが理解される。忍城については成田氏拠点の城郭として15世紀末に整備されたことが出土品の年代等から指摘されているが、上杉顕定が後北条氏に備え、忍・鉢形城の備えを堅固にするよう永正7年(1510)に足利長尾景長に宛てた書状もあり、この頃が一つの視点となろう。 成田親泰は延徳元年(1489)に忍大丞の館を襲い一族を滅ぼし、領内を統一し、忍城を延治3年に完成させたことを示す記録もある。成田親泰は永正7年(1510)の権現山合戦に参戦し、上杉朝良とともに相模権現山城を攻略している。以後、成田長泰、氏長と三代にわたって支配するが、永禄2年(1559)の『小田原衆所領役帳』に成田氏は他国衆として記載される。一方、永禄3年(1560)の上杉景虎関東出陣に伴う『関東幕注文』には 成田幕として成田下総守親泰等の名前が見られる。いったん旧主に服したものの、永禄4年(1561)の鶴岡八幡宮における関東管領就任の席で上杉輝虎から辱めを受け忍に帰城し、成田氏は再び上杉氏と手切れをし、永禄9年には後北条氏に服した。北条氏康はこの成田氏の姿勢を高く評価し、本領を安堵、成田氏を重んじ成田領として独立させ、後北条領国に組み込むことはなかったという。ちなみに永禄6年(1563)に上杉謙信によって攻略された騎西城の城主小田朝興は成田長泰の弟である。成田領の成田氏支配は天正18年(1590)7月16日の開城をもって終焉を迎えた。最後の忍城主成田氏長け開城後蒲生氏郷 に預けられ、豊臣秀吉から鳥山3万8000石を賜り、文禄の役に参陣、釜山城の普請にあたり、文禄4年(1595)に京に没している。江戸時代に入ってからは松平忠吉がはいり、寛永16年(1639)以降は、阿部氏が文政6年(1823)までの184年間にわたって在城した。その後は、松平(奥平)氏が桑名から移封され、幕末まで 在城した。忍城にまつわる歴史上の事件の筆頭は石田三成を総大将とする天正18年の豊臣軍による忍城攻めであろう。周囲を沼地に囲まれ、忍の浮城といわれる難攻不落の名城を、攻めあぐねた石田軍は、埼玉古墳群の丸墓山古墳墳頂に陣を張り、埼玉古墳群などの多くの古墳を削平したりして堤を築き、忍城の水攻めを敢行した。天正18年6月13日の浅野弾正・木村常陸守あての書状では、その水攻めの状況を報告している。荒川の水と利根川の水を引き込む大堤は今も「石田堤」として、行田市内や、吹上町内にのこり、今も北鴻巣駅からさきたま古墳群に延びる「さきたま緑道」沿いで見ることができる。 <関連武将>成田長泰、成田氏長</関連武将> <出典>関東の名城を歩く南関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)</出典>小田原城に関しては、沢山の史料があり、城の遺構も多く残されている。私は、関東の戦国時代に興味があり、調べているので、小田原の役(天正18年)が、戦国時代の終焉だと認識している。その後は、徳川時代に大久保氏や稲葉氏の居城になって、城は、北条氏時代の城域が縮小され、改修されている。徳川氏は、前の時代の城の後に近代の城を構築しているが、大坂城などと同じく小田原城も前代の城の遺構を埋めてしまっている。小田原城だけで無く、100年近く続いた北条氏時代の痕跡を徳川色に塗り替えてしまおうとする意識が関東にきた徳川氏には働いたように思える。小田原城は、室町時代の後期には、鎌倉府の公方足利持氏を助けた報酬とし、小田原周辺の領土と共に拝領した大森氏が城主であった。その後、伊勢宗瑞が上杉氏との抗争で、伊豆から進出してきて、相模国を支配し、北条氏綱の時から北条氏の本城となった。 <地図> 小田原城は、箱根山塊より続く丘陵部に選地した城郭である。西には箱根の山並みを望み、東には肥沃な足柄平野が広がっている。また、北に丹沢山塊、南には相模湾を配する風光明媚な城郭である。小田原のシンボルとして聳える、昭和25年(1960)復興の天守閣に登ると、遠く沖合には伊豆犬島や利島の島影が望め、東には江ノ島や三浦半島、房総半島までをも見渡すことができる。天文20年(1551)に小田原城を訪れた南禅寺の僧東嶺智旺は、『明叔禄』に「府中小田原に到る、町小路数万間、地一塵無し、 東南は海なり、海水小田原の麓を遶るなり、太守の塁、喬木森々、高館巨麗、三方に大池有り、池水湛々、浅深量るべがらざるなり」と記している。この記述から、小田原には塵一つない道路が整然と通り、町の麓にまで海が広がっていたこと、そして太守北条氏康の塁・高館(小田原城)は壮麗で、三方を池(堀)で囲まれていたことなどを知ることができる。小田原城がいつ誰により築城されたのかは、定かではない。小田原城の起源については、今のところ『鎌倉大草紙』の記事で、康正2年(1456)頃に「大森安楽斎父子は竹の下(静岡県小山町)より起て、小田原の城をとり立、近郷を押領」とあるものを初見とする。しかし、それ以前にも小田原城が立地する辺りを要害として利用していたことは間違いの「小田原」とは、現在の小田原市南町から本町の辺りを指すものと想定され、「関東下回・宿次注文」に記された足利尊氏の行程から考えると、東海道沿いの前記「小田原」の山の手が候補地となる。すなわち、天神山丘陵・八幡山丘陵と呼ぶ、後の小田原城の一角を形成する丘陵上を要害の地として野営したと解釈することができよう。なお、これまでに400ヵ所以上で行なわれている発掘調査成果においては、小田原城および城下周辺で一五世紀を遡る遺物の出土は希薄である。このような出土遣物の様相も、小田原城の歴史を考える手掛かりとなるが、文献史的にも考古学的にも小田原城の築城時期については不明な点が多い。 <遺構> 近年の発掘調査では、小田原城下各所で小田原城の縄張では想定できない位置で大規模な堀が検出され、場所によっては障子堀が方形に巡る様相も確認されている。先の「奥州屋敷」の記述では堀が存在することも記されているため、このような事例を踏まえると、小田原城下には家臣が集住し、家臣が住まう方形居館が整然と林立していたのではないかということが想定される。そして、多くの居館を構える小田原の町は、正方位に区画されたプランを有していた。このことは、発掘調査で検出された堀や溝、 道路状遺構の分析から確認されており、居館のみならず、町割りの構造も京都のような都市であったということができよう。上杉謙信・武田信玄の攻撃を龍城戦で退けた小田原北条氏は、豊臣秀吉との対立が明確な状況となった天正12年以降、相次いで小田原城の改修を進めている。その中で、小田原城の代名詞ともいえる総構も構築されることとなる。発掘調査で確認された総構堀は、幅16.5m・深さ10.0m、堀底に最大1.7mの高さの堀障子を持つ規模であり、このような堀と土塁が周囲9キロにわたって構築されていた。 『北条五代記』には、この総構を手本に各地の城郭で総構が採用されたことを示す記述があり、まさに小田原北条氏の本城に相応しい大規模な遺構であった。しかし、近年の研究によると、総構の普請は天正15年頃から行なわれたものと考えられている。つまり、総構に囲まれた小田原城の景観とは、実際のところ小田原北条氏の治世100年のうち、僅か3年程度の姿ということになる。残念ながら、現在の小田原を訪れて総構の全貌や障子堀を見学できる箇所は少ないが、「山ノ神台東」付近では、茶畑として土地利用された堀のラインを明確に確認することができ、「稲荷森」では竹林の中にのこる堀の景観を観察することができる。また、総構堀と小峯御鐘台大堀切が堀が交わる場所では、壮大な堀の交錯を目の当たりにすることができるなど、見学ポイントは多い。 なお、総構ではないが、小峯御鐘台大堀切東堀は堀底を散策路として歩けるように整備されており、壮大な堀と土塁の規模を体感することができる。これら各所では、堀底の凹凸から土橋や堀障子の存在を想定できる箇所もある。来訪者は、土造りによる東国中世城郭の集大成に相応しい景観を楽しむことができるであろう。現在の小田原では、丘陵部でこそ前述の堀・土塁などの中世城郭遺構を観察することができるが、低地部・城下町については関東大貢災をはじめとする度重なる地震・火災の影響により、近世以前の建造物・構造物はほとんどのこっていない。 そのため、小田原を訪れた人の多くは小田原では戦国時代の面影を見ることができないと思うであろう。しかし、足元に目を向けると、実は戦国時代の小田原の面影がそこかしこで観察できる。低地部では、 蓮上院裏および早川口遺構に総構の土塁がのこり、土塁外側には総構堀の痕跡が確認できる。実は、総構堀の大半が、今も河川や暗渠水路として観察することができるのである。また、現在も正方位に走る道路が数多くのこされており、これらの道路は戦国時代から用いられているものである。足下にのこる微妙な区画から、戦国期の小田原の姿を観察できることが小田原散策のポイントである。さらに、街中には「町名保存碑」と呼ぶ明治8年以前の町名を継承するための石碑が各所に建てられており、そのなかには「欄干橋町(旧今宿)」「宮前町」二丁田町」のように戦国期より名前が確認できる町名や、「山角町」「上幸田・下幸田」「安斎小路」などのように小田原北条氏家臣の名前に由来する町名もある。このように、地割りや旧町名の中に戦国時代の小田原の景観は生き続けている。先に戦国時代の小田原城の主郭が二つ存在したことを述べた。しかし、実は現在の小田原城でも二種類の小田原城を見学することができる。一つは、戦国大名小田原北条氏により築かれた中世小田原城である。もう一つが、石垣の上に天守閣が聳える近世小田原城である。この城は、寛永10年(1623)から春日局の実子、稲葉正勝が築城したものであり、稲葉氏三代・大久保氏九代を経て明治維新を迎えた。現在、小田原市教育委員会により随時整備事業が進められている。近世小田原城の下にも中世小田原城の歴史があり、当時の縄張を伝える場所も多い。時代の積層を考慮し、城と城下を合わせて散策することにより、私たちの足下には関東の首府であった戦国時代の小田原の姿がよみがえるのである。(佐々木健策) <歴史> 小田原城を取り立てた大森氏は、扇谷上杉氏の勢力として小田原城に拠っており、同じ扇谷上杉氏に組みする 伊勢弥次郎も小田原城に籠城しかことがあった。しかし、大森氏が山内上杉氏へと転じたため、文亀元年(1501)3月までに弥次郎の 兄である伊勢宗瑞により小田原城は攻略された。伊勢宗瑞とは、いわゆる北条早雲のことである。伊勢宗瑞は小田原城攻略後も韮山城(静岡県伊豆の国市)を本拠とし、小田原城には嫡子氏綱が置かれた。そして、永正15年(1518)に隠居した伊勢宗瑞の跡を受け(宗瑞は翌16年没)、氏綱が家督相続するとともに小田原城は小田原北条氏の本城として位置付けられた。なお、小田原の本拠化は、永正3年(1506)に死去した氏綱母の菩提を弔うための伝心庵が小田原に建立され、永正16年には雲見(静岡県松崎町)の土豪高橋氏が結肌の儀(妊婦の着帯)・お産を雲見と小田原のどちらで行なうかを宗瑞に問い合わせている事例などが確認されることから、宗瑞存命中から進められていたと思われる。 小田原へと進出した伊勢氏は、両上杉氏などの勢力を排除しつつ、相模国内を治めようとする自らの正統性を主張するため、関東管領である上杉氏に対して鎌倉幕府執権である「北条氏」の名跡を名乗り、関東へと勢力を広げていったのである。小田原北条氏100年の首府となった小田城と城下とは、どのような姿であったのだろうか。発掘調査と近年の研究成果を中心にみてみよう。先に紹介した『明叔録』の記述からは、小田原城が三方を池(堀)で囲まれた要害であることをみた。大永2年(1552)、その堀の中で「北の堀の内」には、江ノ島弁財天が勧請され、小田原城の鬼門(北東)の鎮守とされている。したがって、この頃の小田原城の主郭は弁財天(近世弁財天曲輪)から見て南西に位置することとなり、当時の小田原城の主郭が八幡山古郭ではなく、近世の本丸周辺に位置していたことが想定できる。 一方で、丘陵部の八幡山古郭では、これまでに40ヵ所以上の発掘調査が行なわれているが、出土遺物の量は極めて少なく、大正年間(1571~1592)を遡る遺物はほとんど出土していない。これは、現状の八幡山古郭の形成が天正年間まで下がる可能性を示唆しているとともに、八幡山古郭が通常の生活空間として用いられてはいなかったことを示していよう。しかし、八幡山古郭が使われていなかったというわけ ではない。天正18年(1590)に豊臣秀吉と対峙した際に豊臣方で作成された「小田原陣仕寄陣取図」には、本丸部分に「本城氏直」、八幡山古郭と思われる部分に「本城氏政」と記されている。このことから、天正8年(1580)に隠居した氏政は、当主氏直とは居所を別にしていたものと考えられる。天正18年の小田原合戦に際しても、氏直が7月5目に小田原城を出て秀吉に降伏したのに対し、氏政は7日の徳川勢 の入城を経てもなお城に留まり、家康の陣所へと赴くのが10日であった点からみても、氏直・氏政の居所が異なり、天正18年の段階の小田原城には、近世以降に本丸として使われる場所と八幡山古郭の一つの主郭が存在したことがわかるのである。 また、低地部の景観については、さますまな文書史料から推察することができる。連歌師宗牧は小田原の氏康館を訪れた時のことを、『東国紀行』天文14年(1545)2月25日の記事に「君卓のかざられ庭籠の鳥、かずかずのおもしろさ、やり水のかけひ雨にまがはず、水上は箱根の水海よりなどきゝ侍りて、驚ばかりなり」と記している。つまり、氏康館の庭には、箱根の水海(芦ノ湖)から流れる早川から引いた水が用いられているということであるため、水の流れを考えると氏康館の位置が丘陵上でないことは明らかである。そして、その居館には、永禄元年(1558)に古河公方足利義氏を小田原に迎えた時の『鶴岡八幡宮社参記』の記述から、「会所」「寝殿」が備えられていたことがわかる。これらのことから、低地部に当主居館が存在し、その館とは「洛中洛外図」に見られるような「花の御所」的なものであったと考えることができるのである。小田原城下には、『為和記』の記述から、少なくとも氏綱亭・伊勢備中守亭・箱根別当長総(綱)亭などが存在し、冷泉為和を迎えて歌会を催すに相応しい屋敷が林立していたことがわかる。ほかに、文献史料からは「奥州(氏照)屋敷」「山角上野介方」「山中大炊助方」なども存在したことが明らかである。 <関連武将>伊勢宗瑞、北条氏綱、北条氏康、北条氏政、北条氏直</関連武将> <出典>関東の名城を歩く(峰岸純夫・齋藤慎一)</出典>岡崎城と言えば、愛知県の徳川家康の岡崎城が有名ですが、この神奈川県の岡崎城は歴史が古い城です。城址の近くには、築城者とされる岡崎義実の墓もあります。岡崎義実は、三浦大介義明の弟と言われ、鎌倉時代から三浦氏の城であったと見られるが、戦国時代初期には、三浦氏は鎌倉公方から冷遇され、この城も長尾氏のものになっていたようであるが、三浦時髙が奪い返し、伊勢宗瑞が相模国に進出してきた時には、三浦義同が守ってしたが、激しい戦いの後で落城した。この城域のみが周辺より高い位置にあり、 かなりの要害の城だったと考えられる。 <地図> 城地の南方に、東西に細長く低湿地が存在し、古くはこれを西海地土腐、または前田土腐などと呼んだ。現在でも、この低湿地は水田と葦原が交錯するありさまで、古来、天然の要害であることが理解される。さて、この西海地土腐の北側に、南方に開口するいくつかの谷戸地形がみられる。まず西方、つまり最奥部は大畑で、この地の字名を「御所ヶ谷」という。これに東隣する谷戸は入山瀬で、宇名は「王御住」と呼ばれる。この谷戸の最奥郎の一段高くなった丘陵は「台」の宇名があるが、ここに岡崎義実の墓と伝承されるものがあり、それは石橋山合戦`に壮烈な最期をとげた真田与一義忠の乳母吾嬬の墓地と同じ場所だとする伝えもある。「御所ヶ谷」「王御住」「義実墓地」など、これら一連の伝承は、その谷戸地形に今わせて、初期三浦一族の居館の営まれた可能性を強く示唆するように思われる。岡崎城の場所は、標高40m、比高30mで、舌状台地の上にある。ほぼ西側に真田城は、北側に糟屋館がある。 <遺構> 岡崎城は、谷戸をいくつもかかえこんで複雑に広がる丘陵に占地しており、城地の標高は38m、比高は、28mを測る。無量寺の建つ位置が主郭1で、周囲に空堀を隔てて小さな曲輪群を付属させ、これらの全体を幅20mもの横堀で囲み、城の中枢部を防御する。この横堀は、耕作によって失われてしまった部分も多いが、西側の尾根を遮断するAのあたりなどは比較的よく残っている。主郭から南西にのびる尾根上には、堀切で区画された三つの曲輪2,3,4が並び、その先には数段の腰曲輪と土塁を組み合わせた巧妙な虎口Bが造られている。これらの遺構群の西・北・東にも段築や曲輪、堀切らしい人工地形が茫然と広がっていて、耕作などに伴う後世の地形改変との区別がつけにくい。 <歴史> 源頼朝の鎌倉幕府の開府については、伊豆の北条時政の支援もさることながら、相模の豪族三浦一族と、房総の千葉一族の責献には特に著しいものがあった。岡崎義実はこの三浦一族の棟梁三浦大介義明の弟とされ、いわゆる岡崎郷、すなわち大句・馬渡・西海地・入山瀬・矢崎・大畑・別名・丸鳥・北大繩・真田など、現在、平塚巾と伊勢原市の接する付近一帯を領有すると同時に、ここに本拠を置いて定住していたようである。そして伝承では岡崎城の築城も悪四郎義実といわれている。 康正元年(1455)、長尾景仲らが鎌倉公方足利成氏と武蔵分倍河原で戦い、長尾景仲が常陸に敗走した頃、上杉方の三浦介時高(義国)は岡崎の城を乗っ取ったことが「鎌倉大草紙」にみえる。伊勢宗瑞は北関東の戦いが激しくなってきた永正9年(1412)8月、三浦義同の岡崎城(神奈川県平塚市・伊勢原市)を攻めた。この城は、いまの平塚市岡崎から伊勢原市にかけての低湿地の背後の丘陵にあった。沼に守られた要害だ。三浦氏の勢力はこのあたりから三浦半島に及んでいた。伊豆・相模勢の伊勢宗瑞軍は岡崎城を激しく攻め、敗れた三浦義同勢は城を捨てて、三浦義同は住吉城(神奈川県逗子市)に逃れた。 <関連武将>三浦義同、伊勢宗瑞</関連武将> <出典>日本城郭大系、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>普済寺の参道を歩いて行くと、境内に土塁の一部を見ることができ、ここが城址だったと実感できます。また、掘跡と思われる地形も認められます。築城者の立河氏については、あまり分っていないようであるが、戦国時代には、第一次立河合戦、第二次立河合戦などが、史料に出てきます。近くには、江戸時代の甲州街道が多摩川を渡る場所もあるので、合戦の場所の条件を備えていた所とも 言えるのであろうか。 <地図> 府中から多摩川の左岸を約6キロさかのぼると、河岸がしだいに断崖状になってくるあたりに、これを利用した立河氏の城址がある。立川駅から南西方向に多摩川から分かれるた根川の岸にある現在の玄武山普済寺(臨済宗建長寺派、立川市柴崎町)の境内および周辺部が館跡である。ここから多摩川をへだてて、東南西三方の展望が開け、西党の中心であった日奉氏の居館のあった東光寺までは対岸約2キロで、西党の平山氏の城郭は、西南方約5キロの位置にある。 <遺構> 普済寺の境内の北東部と東南部に土塁が残る。山門の両側の部分は、高さ約2m、下幅6mくらいあり、その西南端のすみに堀あともわずかに認められる。いまのこる土塁によって囲まれた部分はほぼ長方形で、南の土塁の線は約60m、西側の土塁は約30mほどの規模で、戦国末期には、西側の高さ13mくらいの多摩川の崖を要害として、いまの境内を主郭として東南方に2,3郭を構えていたと思われる。 <歴史> 立河城を拠点にした立河氏については文献史料からは、よくわかっていないようだ。立河氏は西党であり、西党の祖は日奉氏と伝わる。立河郷・土淵郷一帯に立河一族が蟠踞し、鎌倉時代には御家人として、室町時代には山内上杉氏に従い、応永23年から翌24年にかけて起こった上杉禅秀の乱では鎌倉公方足利持氏方として働き一時失った地頭職に還補されたようである。その後、立河氏は一時姿を消す。 この経緯は不明だが、山内上杉氏の勢力が退潮し、立河郷付近も扇谷上杉氏の版図となり、扇谷氏の家臣であったと考えられる平一揆族が台頭したからであろう。立河郷を支配した平氏も、主家の扇谷上杉朝定が天文15年(1546)4月に河越合戦で北条氏康の軍に敗れて討死したため没落した。なお、享徳4年(1455)3月に鎌倉公方足利成氏に対して山内・扇谷両上杉軍が連合し、府中分倍河原から昭島市拝島にかけて干戈を交えた第一次立河原合戦があり、永正元年(1504)9月には、この城の南にある多摩川で、南武蔵と相模地方の兵を率いた扇谷上杉朝良と、上野と北武蔵の勢力をもつ山内上杉顕定とが激突した第二次立河原合戦があった、このときは、扇谷上杉朝良は山内上杉顕定に負けて「河越城」に後退し、山内上杉勢に包囲され降伏した。この合戦に、松田左衛門以下80騎の兵を送って、扇谷上杉氏を応援させた伊勢宗瑞は、両上杉氏を衝突させて、上杉の支配圏に侵入をはかり、その子の北条氏綱ととき、「江戸城」を扇谷上杉氏から奪ってこの方面を手にいれ、立河氏も北条氏方となり、「八王子城」の一支城として存在したと思われる。北条氏照の臣小坂新兵衛が天正10年(1582)12月、立川(河)氏領の村山へ移住を命じられている。大石定久の養子に入り、滝山城主(のち八王子城主)となった 北条氏照の臣に立河氏がいた。没落していた立河氏は、北条氏照に仕えて再び立河郷を領するようになったと考えられる。天正18年 (1590)に起こった小田原の陣以前に、普済寺は再び城砦化されたらしい。小田原の陣に際し、「立川(河)官内大輔」を討伐するため、豊臣方の軍勢によって、普済寺は焼き払われたという。天正18年(1590)6月、北条氏照の部将中山家範・狩野一庵・横地吉信らの守る八王子城は落城した。小田原の陣後、関東六ヶ国に移封となり江戸に入った徳川家康は、中山家範・狩野一庵の子らを召し抱えた。 中山家範の次男信吉は、のち水戸藩祖徳川頼房の付家老となり、元和4年(1618)に北条氏照の遺臣17騎を与力として付けられた。この中に、立川宮内がおり、金8両・米40石を給され(のち2百石)、水戸藩士となった。 <関連武将>上杉顕定、上杉朝良、伊勢宗瑞</関連武将> <出典>日本城郭大系、城と古戦場、むさし城址ウオーキング、関東百城</出典>深谷城址は、唐沢川の西側に深谷城址公園を含む場所にあったが、公園の入口には城址の石碑などが設置されているが、城の遺構はその東側にある富士浅間神社の残る水堀の一部があるだけである。戦国時代の史料には戦いの場面として出てくるが、現在の地形からみても平城でどれほどの防禦性があったのだろうか。なお、これから紹介する城は、「東国の城址から想う戦国時代に生きた人々」http://eastcivil.na.coocan.jpとして公開しているHPの一部です。機会があれば、そちらも覗いてみて下さい。 <地図> 城址は国鉄高崎線深谷駅の北方約1キロ、市街地に所在する。昭和30年5月建立の「史蹟深谷城址」の碑はあるものの、道路・学校などの公共用地や宅地となり、その面影は城址の西側に所在する富士浅間神社東に幅10mほどの水堀の一部が残っているのみである。かつてこの地帯は窪地であり、城を囲む深堀の水は、城の南から東へ向かって流れている唐沢川の流水などを利用していたことが考えられる。 <遺構> 深谷城は、その形姿から「木瓜城」とも称されたが、城形がボケの花あるいは実の断面に似ていたからだと伝えられている。現在その形状をみることはできないが、深谷城の構造については、寛政年間(1789~1801)に福島来雄が稿した『武蔵志』に「深谷古城図」がある。これには図と共に立地について「北水田遙続」「東西平原也」「南人見山遙隔」城地一体平地ナリ」と記されている。さらに『新編武蔵国風土記稿』に、「宿の北の方にあり、当宿と田谷村にかかれり、今も四方共土居構堀の跡残り構の内皆陸田となれり、此城平城にて南を首とし、北を尾とす、南に大手口ありて夫より西を掃部曲輪と唱へ、其西上りを西丸と呼び、西丸より堀を隔て東を二丸といひ、二丸より又堀を隔て東に本丸あり、本丸より東に当りて東曲輪あり、ここも堀を隔てたり、本丸の北は則ち北曲輪にて、北曲輪の内最北へよりたる辺を秋元越中曲輪と唱ふ、こは上杉の家人秋元越中守長朝居し所なれば呼名とすといへり」とある。このようがうかがわれる。深谷城内には智形神社・八幡社・天神社・弁天社・天王社がある。また上杉憲英は臨済宗国済寺開基、房憲は曹洞宗昌福寺(深谷市藤沢)、憲賢は西洞宗車竹院(熊谷市久下)、憲盛は曹洞宗静簡院(大里郡江南村)をそれぞれ開基している。 <歴史> 深谷城の築城年代の詳細は不明であるが、『重修岡谷家譜』本には、上杉陸奥守憲英を深谷上杉氏の祖とし、憲英―憲光―憲信と庁鼻和城におり、四代目の房憲が深谷に城を築き、憲英の次男兵庫助憲国が応永23年(1416)10月、上杉禅秀の乱の時、庁鼻和城から深谷城に移ってきた。康正2年(1456)10月、上杉房顕と上杉憲信・房憲父子とが足利成氏と深谷に戦った時、房顕は人見(深谷市人見)に、憲信と房憲は深谷城と岡部原(岡部町)に陣取っている。房憲以来深谷城には、憲清-憲賢(永禄3年=1560 4月6日卒)―憲盛と居城し、北条氏に対した。天文20年(1551)3月に北条氏康が関東管領の山内上杉憲政を上野平井城に攻めた時には、岩槻城主太田三楽斎資正や上野箕輪城主長野信濃守らが、この深谷城と上野館林城で交戦した。天正元年(1573)4月、憲盛は北条氏に降り、その長子氏憲を氏政の婿とした。この縁故を結んだことによって、同2年には上杉謙信に攻められ城下が戦火にあっている。ついで同18年1月、氏憲は、豊臣秀吉の小田原攻めに対し、小田原城主北条氏政・氏直父子が一族一門ならびにその属城主を集めた軍議に臨み、そのまま小田原城に詰めていた。ところがその留守中、7月5日に秀吉軍に攻められ深谷城は落城寸前になった。しかしながら重臣秋元長朝・杉田即幡らは焦土作戦はとらず開城した。 <関連武将>上杉憲盛</関連武将> <出典>日本城郭大系</出典>石神井公園は三宝寺池を囲んで大きな樹木が茂る都民の憩いの場所です。池の岸には、水鳥を撮影するカメラマンを見かけます。石神井城址は、公園の正面からかなり中に入った場所の遊歩道から丘に向かうところにりっぱな石碑があります。そこから登ると林の中に右手に石神井神社があり、左手の柵で囲まれたところが石神井城の中心部の郭址のようです。残念ながら、遺構の保護のためか、そこにゆくことはできません。柵の外から写真をとり、城の遺構を想像して、周辺を歩きます。 <地図> 石神井城は、武蔵野台地の東部を西から東へ貫流し隅田川に入る石神井川の中流域、旧豊島部の西端近くに位置する。この城は、平安時代末期から室町時代中期まで、今の台東・文京・豊島・北・荒川・板橋・練馬・足立などの諸区やその周辺の地域にまで勢力を持っていた豊島氏の居城の一つである。同氏は当初、武蔵野台地東北部およびそれに接する旧入間川沿いの沖積地帯に拠り、時代と共に石神井川をさかのぼって所領を拡大し、石神井郷を第二の拠点としていった。石神井城は、北側に三宝寺池、南側に石神井川に夾まれた東西方向にのびる台地上に築かれており、その範囲は都立石神井公園や氷川神社を中心に、西は石神井台二丁目の一部、東は 道場寺を含めた地域におよぶものと考えられている。 <遺構> 石神井城は、石神井川の谷とその北に支谷として存在する三宝寺池の谷の間に挾まれた、比高7mほどの舌状台地にある。ただ、中世の城郭一般にみられるように、舌状台地の先端の三方を低地に囲まれた所に位置するのでなく、北の谷のもっとも奥にある三宝寺池の南側、すなわち舌状台地基部に立地するのがこの城の大きな特色である。三宝寺池は豊富な水量で知られる湧水池であるが、周囲はその湧水の浸蝕によってかなりの急崖をなしている。この急崖と池自体を自然の要害とし、石神井川谷における耕地経営の根幹たる水源の掌握といった観点も、本城の占地と関係があろうかと思われる。このように、本城の北と南は台地の両端の斜面で限られるが、東・西は人工の施設となる。まず西側を限る空堀は、三宝寺池の南西部、もっとも奥まった所からほぼ真南に、約270mある台地を掘り切っている。 今はまったく埋められ、住宅地の下になってしまったが、昭和28年まで、その北部約60mの部分が、東側に並走する土塁と共に残っていた。同33年に発掘調査したところでは、上幅約9m、底幅1m、深さ3.5m、東側の土塁の基底幅7.1mであった。城地東限は、西の土塁・堀から約250m東の、この台地の幅がもっとも狭く150mほどになる所を空堀で切っている。その方向は西の空堀と同様ほぼ正南北で、その 規模は、昭和43年の発掘調査で、上幅約7m、底幅0.7m、深さ約2.8mというデータが得られている。土塁の並走については不明である。この東の空堀の北半は、古くから屋敷を建てるため削平されてすべて失われたが、その屋敷の西側にE形に走る規模の大きい塁濠に 囲まれた一郭が存し、本城の中核たる内郭と考えられている。その西側の部分は土塁・空堀とも特に明瞭で、南北の長さ約60m、折歪を示す所が一か所ある。昭和42年の発掘調査では、北部の横断トレンチで空堀の上幅11.6m、底幅3m、深さ6.1m、土塁の基底幅12.3m、現在高2.2m(推定高約4.5m)という結果が得られ、その大規模な構造と西限(外郭)の塁濠との相違が注目された。台地の崖に沿う北側の土塁はしだいに低くなり、20mほどで消滅しているが、南側では空堀は東に約90m延びて、前述の東限の空堀に達している。土塁は約50mを測る。 <歴史> 文明8年(1476)6月以降の長尾景春の乱にあたり、当時の石神井・練馬(練馬区向山三丁目、豊島園内。本城の東方4.5Km)両城の城主豊島泰経とその弟の泰明は景春に与党したので、翌9年4月、扇谷上杉定正の家宰太田資長によって攻められることになった。まず4月13日、泰明の拠る 平塚城(北区上中里一丁目、平塚神社付近)が太田資長に攻められたので、翌14日、豊島泰経は石神井・練馬両城から出兵し、江古田・沼袋ケ原(本城の東南東5-6キロの地。中野区)で合戦が行なわれた。その結果、豊島勢は敗れ、 豊島泰明以下一族数十人を失った。豊島泰経はかろうじて石神井城に逃げ帰ったが、太田資長はこれを追って城の南方石神井川を隔てた愛宕山に陣を布き、本城を攻撃した。4月18日には、城を取り壊すという条件で和平交渉を開始したが、豊島泰経がそれを実行しないので、太田資長はついに4月28日、外郭を攻め取るに至り、城兵は夜陰にまぎれて敗走した。豊島泰経も生きのびて平塚城に拠ったらしいが、翌文明10年1月25日、太田資長はこれを攻め落とし、豊島泰経は小机城(横浜市)に敗走、ここで豊島宗家は事実上没落し、その旧領は太田資長の支配下に入ったのである。石神井城落城にまつわる伝説は、北にある三宝寺池をも舞台にとり込んで、より悲劇的である。豊島泰経は白馬に重代の家宝の黄金の鞍を置いてこれにまたがり、三宝寺池の水底深く沈んだという。金の鞍は今も池底にあって、以来、晴天の日に池畔の松の梢に登れば燦然と輝くのを見ることができるという。さらにこの伝説は、あとを追って長女照姫も入水したとし、二人を葬った殿塚・姫塚という塚さえある。 <関連武将>豊島泰経、太田資長</関連武将> <出典>日本城郭大系、関東の名城を歩く 南関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)</出典>大磯城址公園は、大磯駅から山側へ少し行ったところにあり、山の頂上付近には展望台があり、湘南の海や箱根方面の眺望が望める。公園として、立派に整地されているので、城の遺構と思える場所はないようである。 <地図> 海道本線の大磯駅と二宮駅の中間に、小磯という所がある。古くからこのあたりは鴫立沢で知られるように、海近く、 山けわしい風光の地で、余綾郷と祢されていた。相模湾に沿った海岸は、こゆるぎの浜といわれ、小磯とはこゆるぎの磯という 意味である。明治時代には、ここの風景を愛した政治家、財界人、文人などが競って別荘を建て、西小磯にある伊藤博文の滄浪閣はその代表的なもの。ここ小磯城址は三井家の別荘と吉田茂邸にまたがる丘陵上にあった。 <遺構> 王城山城の直下を通る東海道を西に向かうと、大磯からは海沿いに海岸砂丘上を進むが、やがて行く手を遮るように台地が横たわる。この台地の先端が、文明9年(1477)に長尾景春の被官が籠城し、太田道灌により落城したという小磯城の伝承地である。現在は城山公園旧吉田茂邸になっており、比較的自由に見て回ることができる。交通を扼する絶好の位置にあって、伝承通りだとすれば、さすがは名将長尾景春が選んだ地といえるが、現状でははっきりした城郭遺構は確認できない。台地の鞍部Aを堀切とする指摘もあるが、切通道の跡のようである。線路を夾んだ北側のピークBに、曲輪のように見える場所もあるが、城郭遺構と断定できない。現状は、城郭類似遺構という評価しかできない。 <歴史> 小磯城がはじめて築かれたのは平安末期にさかのばる。当時、湘西地方にゆるぎない勢力を誇った波多野義通(藤綜秀郷の子孫)は、中村氏、三浦氏などの在地勢力と巧みな姻戚関係を結んで一族を各地に分知させた。ここ小磯は義通の三男大槻小二郎高義の嫡男八郎義秀の所領となした。義秀は当城を構えて小磯氏を名乗り、以後、小磯氏が城主となって封をおそった。だが、いつのころか、小磯氏は滅亡をとげてしまう。室町中期、そろそろ戦国のきざしが見えるころ、関東地方に長尾景春による大乱が勃発した。この乱は関東管領山内上杉家の執事職をめぐる相続争いか発端であった。当然、父景仲の跡をついで山内上杉家の家宰となるはずだった景春は、叔父の忠茂がこれにとってかわったので、古河公方をはじめ、アンチ管領勢を集めて旗上げをした。東海道の要衝、小磯城には越後の五郎、同四郎の兄弟(?)が立てこもり、相模川に沿った小沢城、溝呂木城と挙応した。文明9年(1477)3月、駿河鎮定にあった太田道灌は、反乱軍制圧のため駒を返し、ます溝呂木、小磯両城の攻略にとりかかった。溝呂木城にあった溝呂木正重は城を持ちこたられず、自ら火を放った。道灌の兵勢は勝ちに乗じて小磯城を包囲した。3月18日、小磯城は激しい戦場の修羅場と化して夜中になって遂に落城。越後の五郎、四郎は道灌の軍門にくだった。この越後なる者はつまびらかでないが、おそらく越後長尾氏の一族ではないか、と考えられるその後、小磯城がどうなったかは不明だが、小田原北条氏によって高麗山城、王城山城と共に支城として管理されたものだろう。「小田原衆所領役帳」(杉山博氏校註本)によると小磯の地は花之木氏という武将の領地となっていて、花之木氏四百六貫文のうち百貫文を当地で領し、しかも小磯が知行地の最初に見える。杉山博東人助教授の校証によると、当時、北条家の浮役の寄令衆に花木主水なる者がいるとされる。「小田原旧記」によれば、御馬廻衆一手持に花木新四郎の名が見える。いずれにしろ、小磯城に戦国時代花之木氏が居城したか、その持城であった可能性は極めて高い、と見るべきである。今日、豪華を誇った三井邸は名鉄不動産に売却され、茶室城山荘などは移築、城址はまったくの荒れ放題である。ただ城山の南にある堀切と城山の西に流れる葛川の支流と、東に流れる水堀(今では小川となっている)が城址であることを伝えるのみだ。なお、東海道の切通を経てある故吉田茂邸は当城の一部で出城跡といわれている。城山の東側は文明9年(1477)主戦場だったらしく、多数の塚がある。小磯城の城兵と道灌の兵の戦死者の墓と伝わる。 <関連武将>太田資長</関連武将> <出典>神奈川の城、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>こちらの小沢城は、別名天神山城です。私は、南部線稲田堤駅から多摩川の支流三沢川沿いに進み丘陵の南側から登り、城址の中心部に行ったときと、三沢川沿いの丘陵の西側端部から、尾根伝いに登った事があります。細い尾根の頂部と一段下がった平地に郭址の遺構が残っています。山城らしい城址です。北条氏康が初陣で扇谷上杉朝興を破った小沢原の合戦はこの城の麓の多摩川付近で行われたと 思われます。 <地図> 小沢域は、川崎市西北端の多摩区菅と、東京都稲城市矢野口町の都県境を東西に延びる多摩丘陵支脈の先端近くの小沢峰にある。北麓を三沢川(多摩川の支流)が巡り、さらにその北方1Kmには多摩川が東流する。南側は丘陵に沿って彎入した地形となっており、そこは仙石谷と呼ばれ、集落があり、田畑が展開している。また、西麓には鎌倉街道が通っており、交通の要所を占める地であったことがうかがえる。「新編武蔵国風土記稿」は「(菅)村の西の方にあたれる山なり。この所を小沢峯と呼ぶ.この峯の地先多摩郡矢野口につづきたり.(中略)小沢小太郎が居城なりしと云。又矢野口村の伝へには、この山を天神山と号し、小沢左衛門と云人の住せし所なりと云.されば小太郎左衝門は同人なるか、或は父子かなるべし.年代さへも伝へざれば考ふるにょしなし。享禄・天文の頃(1528~55)、上杉北条と合戦ありし小沢原といえるも、この山下の平地なるべければ、この辺要害の地にて城塁をもかまへしなるべし。今も石垣、馬場、井戸等の形遣れり。その地東西北打ひらきて多摩川を臨み、艮に本門寺の山あり。眺望いと佳なり」とある。 <遺構> 小沢城は、ピークを二つもつ馬の背状の尾根と、その南下の削平地群で構成されている。西側のピークAが天神山(小沢峯)、Bが浅間山で、どちらも狭く、斜面も自然のままに見えるが、Aのすぐ西は大きく掘り切られ(C)、北に伸びる支尾根にも堀切Dがある。Bの南に伸びる尾根も、鋭く掘り切られている。主尾根の東側は、いったん落ちて細尾根となり、先で鞍部Eになる。ここから谷状の地形が北へ下っていて、「切通し」の呼称があり、これも堀切とされている。しかし、主体部と離れているうえ、掘にしては大きすぎるように思える。この城のユニークな点は、ピークBの南に続く尾根上の1を入念に加工し、事実上の主郭としていることである。 まず、堀切に面して大きな櫓台状の土塁を設け、周囲を削り立てた壁とし、南東に派生する支尾根の付け根に堀切を構える。さらに、東側はこの堀切から続く横掘とし、西側では主尾根に面する側を大きくえぐって掘にしている。以上のような特徴的なプランから、かって赤星直忠氏は、山腹中央部をとりたてた「模範的な中世邸館跡」と評価した。これ以後、山腹を城の中心とする見方が引き継がれている。ただ、ピークAの北の支尾根に堀切があるように、主尾根を防御するための普請も行われている。南北朝期の文書で武蔵府中防衛拠点だったことがうかがえるのと合わせ、山上部分の意義も無視できない。 <歴史> 小沢城は、「斬編武蔵国風土記稿」が伝えるように小沢小太郎の居城とされており、小沢小太郎は武蔵七党の一つ秩父党の小山田別当有重の子稲毛三郎重成の嫡子と考えられている。『吾妻鏡』には小沢次郎重政の名がみえるが、他の御家人にも例がみられるように次男が鎌倉に出仕し、嫡子小太邱は、在地の支配にあたっていたものであろうか。御家人稲毛三郎重成は、鎌倉開府功臣の一人であるが、自領稲毛庄の拡大を図るために、他領を侵したたびたび騒ぎを起こし、幕府から謹慎を命ぜられている。その果敢な行動にまつわる種々のエピソードが伝えられ、坂東武者の一面を端的に代表する人物として知られている。源頼朝没後、元久2年(1205)に起きた畠山重忠の諜殺事件に関連して、重成・重政父子は、鎌倉で殺害された。その後、所領は重成の縁者に移ったとされているが、稲毛庄の支配には一族の小沢左近将監という人物があたっていることが、「吾妻鏡」にも記されている。小沢城付近には、小沢氏に関する伝承が集中していろ点にも注目しておきたい。しかし、小沢城の遺構は後述するようにおおむね室町時代のものとみなされ、史料にその名が登場するのも南北朝時代においてである。「高麗郡新堀文書ー高麗彦四郎経澄軍忠事-」に、南北朝争乱期の観応二年(正平6、1351)12月20日、「押寄府中追散御敵焼払小沢城 」と商麗彦四郎経澄によって焼き払われたことが記されている。地理的な関係から、この城のこととみるのが妥当であろう。 小沢原の合戦について「史料綜覧」には、「(亨禄3年6月)12日、武蔵河越上杉朝興、北条氏綱ヲ撃タントシ、府中二陣ス。是日、氏綱、之ヲ同国小沢原二破ル」とある。この小沢原の位置は、府中から矢野口・菅にかけた小沢城北側の多摩川原であるといわれている(『川崎史話』)。城跡は、小沢峰の東寄りにある天神山および浅間山の両峰を結ぶ稜線を北側の備えとし、その両峰の西および東の外側を掘り切って、その間の南側の中腹斜面を数段に削平し、そこを城地の中心としている。さらに、天神山の北側に も地形なりに数段の小さな平場を作っている。尾根筋が細いため東西の堀切の間には、天神山・浅間山両峰の頂に多少削平の跡が認められるのみで、郭を形成するに至っていない。しかも堀切から尾根通し山頂へ向かうルートは東西双方とも、急傾斜のため直進することができず、登頂路は南側山腹平坦部へ迂回している。尾根の北側は、急傾斜で三沢川に落ち、自然の要害地形をなしている。山頂を含む尾根は、いわば天然地形のまま土塁の役割を果たし、峰の頂上は、見張り所として利用されたものと思われる。南側山腹には数段にわたって平場が連なり、土塁・堀・見張り台・虎口などの諸遺構が集中してみられることから、城の中枢をなす部分であったといえる。中央には30mx20mほどの緩傾斜の平場Eがあり、西側の堀切から迂回して山頂へ至る道は、ここを経由している。「川崎市文化財報告書」では、平場Eを居館跡にあてている。北側から東側にかけて切岸が立ち、その上段に斜面を削って造成した平場Cがある。平場Eの北端が平場Cと接する所に虎口状の地形がみられる。平場Cは、北西から東南に延びる細い帯郭状になっており、北西部の虎口に沿って上塁がみられる。また、平場Cは、東南部から浅間山の南に派出する枝尾根(上部は削平され、平場Aをなしている)の先端を掘り切り、尾根の東側にまわりこむ平場Dにつながっている。このCとDの接続・部には、高さ約4m、広さ3m四方の櫓台とみなされる土壇があり、その南側は急崖をなしている。平場Cの北、平場Aの西側の比高2mほどの切岸の上に、17mx14mほどのほぼ長方形の平坦面Bが認められる。この平場Bは、小沢城の平場群中、地形がもっともよく整っており、西側には土塁が認められる。これらの平場を見下ろす位置にあるのが、浅問山から南に張り出した尾根上にある平場Aである。広さ7mx30mで、北端には物見台と伝えられる土塁状の遺構が残り、さらに浅間山に接続する部分に堀切がある。これらの遺構の形態・規襖・構成から判断して、「川崎市文化財報告書」第八集 小沢城-」は、「支尾根を削平し、かなり広い平場が次から次へ連続しており、掘割を作り、切岸を作り、土塁を築き、大堀をもって城内外を区切るやり方は、邸館を中心とする中世後半期城郭にみられるところに近似している」と述べている。このように小沢城は、邸館的性格を反映した室町的の居城形態を示すものとして、貴重な存在である。 <関連武将>北条氏康</関連武将> <出典>日本城郭大系、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>この城は、伊勢宗瑞が神奈川湊近くの権現山に扇谷上杉氏の重臣だった上田氏を蜂起させた際、後詰めとして、高麗寺山に築いたとされ、現在の高麗寺山山頂にあったとする史料がある。2,3度行ったことがあるが、城の遺構かどうかはっきりしない。勝手な想像であるが、伊勢宗瑞が権現山の味方を支援するためとしたら、当時相模国、三浦半島は敵対する三浦氏の勢力範囲で相模湾も三浦氏が支配していたと思われる。権現山までの陸路が通行困難なら、伊豆の水軍を味方にした伊勢宗瑞は海路から三浦氏との対戦をさけ権現山を支援しようとしたのではあるまいか。そうすると、急峻な山の上に城を築くのは不自然のような気がする。結局、伊勢宗瑞は海路からも陸路からも権現山城を救援できなくて、この作戦は失敗に終わった。 <地図> 旧東海道の京見附は、花水川の河口付近にあり、川越しに広重の浮世絵にも描かれている高麗山が目の前に迫ってくる。高来神社の裏から、山道をたどって、山頂までたどることができる。山頂の手前は、急な石段があって、一汗かく。この高麗山は、相模湾岸に沿って通る旧東海道の北側にそびえる浅間山、千畳敷の山の東側に位置し、花水川に落ち込んでいる。陸と海の交通に便利な場所だったと思われる。住吉城は、高麗山の裾野を花水川方面から北側に回り込んだ低い土地にある。 </地図> 山頂の尾根筋に並ぶ削平地を、そのまま城の曲輪に転用しているようだ。主郭に当たる1は神社跡で、土塁がめぐるようにみえるが、これは社殿の造営に伴うもので城の遺構ではないだろう。東側は2の手前に堀切を入れたようで(A)、西もB,C,Dと堀切を入れる。このうちCは、城の堀としてはやや浅いが、Dはほかに比べ大きい。これらの堀切を自然の谷頭と見る向きもあるが、筆者は城郭遺構と考える。なお、Dのみは南斜面に竪堀のように続くが、この部分は林業、ないしは近年の橋建設に伴う破壊の可能性がある。2の北西山腹にある土塁囲みの3も「寺窪」の地名があり、土塁の外側も切岸状になっておらず、寺院に伴う遺構のようである。全体に、寺社の施設と自然の険阻を頼みに最小限の普請を加えて、山城として成立している印象だ。平城である住吉要害の視界的不利を補いつつ、最終的には詰城として利用することが築城目的であろう。 <歴史> 高麗寺山城は「小田原記」に、「上杉の家老長尾六郎為景逆心を起し、永正七年六月、顕定を討ち取り申しける。小田原には子息新九郎をとどめ、吾が身は松田、大道寺以下の軍勢を引率し、高麗寺山並に住吉の故城を取り立て籠る」とあり、これによって高城寺山中のどこかに古城址があると考えられてきた。たとえば「新編相模国風土記稿」に「詳ならざれども高麗寺山上に在りしこと知るべし」といい、また「大磯誌」に、「高麗山上に在り.今官林と為り、累湟の址を存せず」とあるように、位置は伝承にも ないのに長く山中いずれかに跡があるはずだと思われていたようである。これを明確に高麗寺山頂の社地の周辺だと指示したのは、おそらく「大磯町文化史」が最初であろう。ついでこの位置の解説は「神奈川の城」でいっそうう拡充されて、ともすると高麗寺山城は、山頂高麗神社付近に認めることが通説化しようとしている。 <関連武将>伊勢宗瑞</関連武将> <出典>日本城郭大系、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>葛西城は戦国時代に関東管領上杉氏が古河公方足利成氏との抗争時に築城したといわれ、ここは、武蔵国と下総国の国境ふきんであるため、その後の千葉氏の内紛のときも千葉氏の嫡流が上杉氏により保護された舞台になったり、後北条氏は、扇谷上杉氏から奪った江戸城に近くで江戸湾岸である交通の要衝であるため、この葛西城を攻略し、重要な拠点をしたようである。北条氏の血筋である古河公方足利義氏が一時在城したこともある。 <地図> 葛西城は、JR常磐線の亀有駅から、環七通りを南下し、国道6号線と交差する先の東京東部の低地帯を流れる中川の西岸、約250mに位置する平城である。地盤沈下のため、現地表面は海抜0.5mから1mと低いが、本来は中川によって形成された微高の自然堤防上に立地していたと考えられる。現在、付近は都営住宅や民家などが立ち並んでおり、環七通りの道路をはさんで、東側に葛西城址公園、西側に御殿山公園として本郭跡の一部だけが残されている。 <遺構> この地に環状七号線道路の建設が計画され、城址の確認と道路建設見直しのため予備発掘調査が行なわれた。調査は昭和47年から5ヶ年間にわたり、加藤晋平、江森正義氏らによって行なわれた。この調査は環七道路予定地内に限られ、しかも中心部は未発掘であるが、城の繩張りを示す堀跡が南・北に検出された。この南・北を限る堀の間隔は約74mで、主郭の規模を表わしているとみられる。南側の堀は東方に向かって折歪をみせ、やや広がっている。堀の形態は箱堀形を呈し、上部幅約17m、深さ約1.8mの大規模なものである。この堀の築造年代は、出土遺物からみて16世紀半ば頃、すなわち、ほぼ後北条氏の支配時代に始まると考えられる。この堀跡のほかにも、数本の堀・溝跡が重複して検出され、たびたび普請が行なわれたことを示している。土塁は検出されなかったが、これは後世の削平のためであろう。徳川氏の離館は、中世葛西城の主郭をほぼ踏襲していたとみられ、堀の中には江戸時代に造られた橋梁の脚列も発見された。遺構にともなって、中世から近世初頭に至る数多くの遺物が出土した。舶栽・国産の種々の陶磁器類をはじめ、瓦・かわらけ・砥石・硯・石臼・板碑・各種石塔類・古銭・笄・簪・玄翁・迷子札・木製の曲物・折敷・箸・人形・下駄・漆椀などである。また刀・脇差・小柄・槍先などは戦国の匂いの濃厚な遺物といえよう。堀の中から出土した頭骨は、後頭部に三か所の斬りあとがあり、打首に処されたことが わかるが、成人前の女性であった。当時の社会を知るうえで興味深い。 <歴史> 葛西城の創建年代は明らかでないが、古河公方足利成氏と関東管領上杉房顕が激しく争った享徳の乱(1454年)前後、足利成氏に対する上杉方の防御拠点として構築されたとみられる。葛西城は下総と武蔵の国境近くに位置していたため、戦国の争乱の影響をたびたび受けている。古河公方足利成氏による干葉胤直攻略によって引き起こされた千葉家の内紛は、葛西の地にも大きく影響した。康正2年(1456)、足利成氏に追われた千葉実胤は、大石石見守によって葛西に保護されている。この頃は、古河公方に対する上杉氏の最前線の城郭であったのである。また大永5年(1525)にも、大石氏方の進駐の地であったことが知られている。しかしながら、この頃までの葛西城の実態の多くは、いまだ謎につつまれている。文献や遺構の面から、葛西城が浮かびでてくるのは、天文7年(1538)2月、北条氏綱によって落城させられたという事実からである。これ以後、葛西城は後北条氏の一支城となるのである。しかし、その間も平穏な状態が続いたわけではなく、遠山弥九郎の在番中には、太田氏一族と思われる何者かによって乗っ取られている。永禄5年(1562)、これを再び北条氏に取り返したのは本田正勝であるが、この作戦は相当な冒険であったらしい。わずかに太田正勝と同類衆のみで、「忍びをもって」乗っ取ったという。本田氏はこの功によって、葛西城在番を命じられている。天正18年(1590)、豊臣秀吉による江戸落城によって、葛西城は徳川氏の支配下に入った。葛西城の跡は、葛西離館・葛西御殿として修改築が加えられ、家康・秀忠・家光の三代にわたって、将軍鷹狩りの際の休憩・宿泊施設として利用された。 <関連武将>北条氏綱</関連武将> <出典>日本城郭大系、むさし城址ウオーキング</出典>この城の城域は、住宅地になっており、遺構はほんの一部の土塁が残っていて、当初の城にはなかった模擬天守閣が公共の施設として建てられている。訪問したときは、模擬天守閣(婦人会館)の庭にはアジサイが美しく咲いていたのが印象的だった。この部分は周囲よりやや高くなっているが、住宅地になっている本丸跡などもほぼ平坦地であり、防禦性はあまりなかったのではないだろうか。 <地図> 騎西町は利根川によって形成された台地に南東方向の自然堤防状の関東口-ム層の台地上にある。騎西城は根古屋の北西端にあり、同じく関東ローム層の台地上に築城されていた。忍城から23キロ、羽生城から9キロ南である。騎西城の創建は不詳だが、大手口を出た所にある金剛院には高さ365センチ、幅133センチ、厚さ18センチの鎌倉時代中期とみられる阿弥陀三尊来迎図の板石塔婆をはじめ、応長元年(1311)、応永32年(1425)の銘のあるもののほか五基、根古屋には他に八基の板石塔婆があり、武蔵七党の一つ私市党の豪族の居館があったものとみられる。 <遺構> 騎西城の周囲は沼で、その最北の郭が本丸である。本丸には土塁がめぐり、周囲は150m余である。南に引橋があり二の丸へ通じている。二の丸にも土塁がめぐり、その周囲は200m余である。出入ロは東にあり、それを出ると左(北)に馬場郭があり、右へ行くと天神郭となっている。馬場郭から天神郭へは土塁が続き、天神郭でT字型となっていた。これは明治20年代まで残っていたが、大正時代になり県道が南北に縦断した際削平された。現在では「私巾城」の石碑が建っている所だけに土塁が残っている。天神郭の東に侍屋敷などがあり、大手口を出るとその先に金剛院がある。北へ行くと現在金剛院にある阿弥陀三尊来迎図の板石塔婆があった。大手口の南は侍屋敷・城下町となっていた。現在、二の丸跡には婦人会館(三重の模擬天守閣)が建っているが、本来騎西城は天守閣のない平城であった。 <歴史> 康正元年(1455)、鎌倉を追われたあと古河を本拠とした足利成氏は、12月に山内上杉氏の一族である庁鼻和性順(憲信)、山内上杉家の家宰長尾左衛門尉景仲が守る騎西城を攻め落とした。これが本城の史料上の初見である。小田大炊頭顕家は文亀年間(1501~04)から天文初年の間頃、種垂城から騎西城に移った。その後、忍城主成田下総守親泰の次男三郎助朝真を養子にして(小田伊賀守家時)騎西城を守らせ、自分は種垂城に隠居した。永禄6年(1563)3月、上杉輝虎(謙信)は松山城救援のため武蔵に出陣し、北条方の成田氏一族である家時が守る騎西城を攻め落とした。天正2年(1574)、上杉謙信は深谷城奪還のため越後より長駆し、上野の沼田から出陣し古河・栗橋・館林の各城を破り、さらに騎西・羽生・岩槻の各城をも落とした。しかし、深谷城回復はならなかった。同18年、豊臣秀吉が小田原北条氏を攻略した際、中山道を来た一隊は4月27日に騎西城を落城させた。 <関連武将>長尾景仲</関連武将> <出典>日本城郭大系)</出典>東武野田線の岩槻駅から東南方向に歩き、岩槻駅交差点で県道2号線を東方向に行くと、右手に岩槻城址公園への道があり、その道をたどっていくと、緑の樹木や池が配置された公園に着きます。公園の東側には元荒川が流れていて、周囲よりやや低い空間です。戦国時代の終わりには、後北条氏の城だったので、かなり広い地域が城域だったようですが、城の遺構としては、空堀や土塁が一部残る程度ですが、障子堀もあったようで、案内があるのですが、復元されている規模が小さいようです。建物は黒門、裏門が多分 移築でしょうが、残されています。 <地図> 別名白鶴城と呼ばれる岩付城は、元荒川と綾瀬川にはさまれた西北から東南へと細長く伸びる洪積台地の東縁に城の中心部(主郭部)を構えている。16世紀末までには、主郭部台地の南北対岸にも城域を拡張している。岩槻の地は、鎌倉期の奥大道の系譜を引く街道の荒川(現在の元荒川)渡河点に当たり、水陸交通の要衝であったことから、早い時期から市場・宿が形成されていた可能性が考えられる。 <遺構> 現在では城跡の南端の新曲輪・鍛冶曲輪跡があり指定史跡となり、岩槻城の城門と伝わる「黒門」「裏門」も移築保存され、岩槻城址公園として市民の憩いの場所となっている。幾度かの改修を経ているが、特に天正18年の小田原攻めの直前には大きな改修がなされた。江戸時代の絵図から、城は本丸・二の丸・三の丸などの主郭域、その周囲を取り囲む沼の北側に位置する新正寺曲輪域、南岸に位置する新曲輪域という三つのブロックから構成されていたことがわかる。新曲輪と鍛冶曲輪からなる新曲輪域は、1580年代に秀吉の関東侵攻に備え、主郭域の南方の防備を固めるために造られた出丸で、土塁・空堀・馬出など戦国期の岩付城の遺構がよくのこされている。近年の発掘調査では北条氏が得意とした築城技術である障子堀が見つかっている。障子堀は、堀の底に畝状の障害を設けた特徴的な堀で、新曲輪では見っかった畝はその間隔が約9mあり、それを復元したものを現地で見ることができる。城の西側および南側の一帯には、戦国時代から江戸時代にかけて武家屋敷と町屋、寺社地からなる城下町が形成された。秀吉の関東侵攻が現実昧を帯びるようになると城主北条氏房は、父氏政の小田原と同様に、城とその城下を「大構」で取り囲み備えた。長さ約8キロにもおよぶ大構は、町側に土塁を築き、その外側に堀を設けたもので、城と城下は巨大な防御施設によって守られる一つの大きな空間となった。大構は、その後失われ現在ではその全貌を知ることができないが、城下町の西、現在の岩槻駅の北東にのこる小高い山は、戦国時代の大構の威容を今に伝える唯一の場所で、江戸時代の初期に愛宕神社が祀られたため大構がわずかにのこされた。また城の北に鎮座した久伊見神社は、太田資正が天文19年(1550)に岩付城の鎮守として創建した神社である。境内には岩付城主が乞雨祈願に使用したという「雨乞いの井」や県内でも有数の大サカキ (県指定天然記念物)の大木がある。神社境内はかっての岩付城の一部で、元荒川を臨む社叢は埼玉県自然百選に選ばれている。 <歴史> この城は、従来、長禄元年(1457)に扇谷上杉方の城として太田道真が築城したとされてきたが、近年は文明年間に古河公方方の成田正等により築城されたとする説が有力になっている。16世紀前半には岩付太田氏の居城として史料に現れ、小田原北条氏との攻防・同盟・離反を繰り返しながら、永禄10年(1567)三舟山合戦(千葉県富津市)で太田氏資が戦死するにおよび、北条氏が直接支配するところとなる。 その後、天下統一を目指し関東へ進出する豊臣秀吉と北条氏が対立、天正18年(1590)浅野長吉(長政)ら豊臣方の総攻撃を受け、岩付城は落城する。文明年間に岩付城を築城した成田氏は、永正6年(1509)までには本拠忍城仁戻り、その後を古河公方奉公衆と推定される渋江氏が城を守っている。一方で永正の乱の中で古河公方足利政氏の最大の支援者となった扇谷上杉氏が岩付城をその支配に組み入れるようになる。岩付城の勢力図が、扇谷上杉氏方と北条氏方との間でめまぐるしく入れ替わるようになるのは、北条氏綱が武蔵へ侵攻を開始してからである。大永4年(1524)江戸城にいた太田資高が主人扇谷上杉朝興の留守に乗じて離反し、江戸城を北条氏綱に落とさせると、岩付城でも上杉朝興の重臣太田資頼が北条氏綱に内応し、渋江右衛門大夫の岩付城を落とすことになる。この時が岩付太田氏の始まりとされる。すぐに上杉朝興は甲斐武田氏の援軍を得て岩付城を奪回し、太田資頼は上杉朝興に帰参させられるが、翌年には、太田資頼に没落させられた渋江右衛門大夫の子三郎が北条氏綱を頼り岩付城を攻撃、太田資頼は石戸城(北本市)に後退させられる。享禄4年(1531)太田資頼は再び岩付城を攻め渋江三郎を討って岩付城主に返り咲き、旧領の比企郡三保谷郷に加え、足立郡のほぼ全域および騎西郡南部にわたる支配領域を形成することになる。その二年後、太田資頼は隠居し家督を嫡子資顕に譲る。武蔵への北条勢力の伸張が皆しくなると、太田資顕は扇谷上杉から離れて行く。天文15年(1546)、山内上杉・古河公方・扇谷上杉氏の連合軍は、河越合戦で北条氏康に破れ太田氏の主家扇谷上杉家は滅亡するが、その絶対的優位の軍勢の中で上杉方が北条氏に敗れたのは太田資顕が北条方に付いた結果ともいわれる。一方上杉方にあって上野新田領高林に逃れていた太田資正は、北条氏の里見攻めの隙を衝いで松山城を奪取、翌年兄資顕(全鑑) が亡くなると、岩付城を手中に収め岩付太田家の家督を継承し、松山城には上田朝直を置いて再び北条氏に敵対する。ところが上田朝直がすぐに北条に内応したため、松山城は北条の手に落ち、続いて岩付城も包囲され、太田資正は北条氏康に従属することとなる。永禄3年(1560)、上杉謙信の関東侵攻に伴い、太田資正をはじめかっての反北条勢力は上杉方につき、北条の勢力は後退を余儀なくされる。しかし上杉謙信がいったん帰国すれば再び北条が侵攻するという繰り返しの中で、扇谷上杉方の重要拠点であった松山城も、岩付太田氏と北条氏との間で激しい争奪戦が繰り広げられた。この松山城をめぐる攻防戦の中で生まれたとされる逸話が次の「三楽の犬の入替」である。岩付太田氏の中でも勇将として知られる太田資正(三楽斎道誉)は、軍用犬を初めて使った武将とされる。太田資正が北条氏康と争奪戦を繰り広げた松山城は、太田資正のいる岩付城と三十里余りも離れていた。ところが北条氏康率いる北条方が松山城を攻撃すると必ずといってよいほど岩附から即時に後詰が到着して、北条氏康を苦しめた。それは、太田資正が岩付城と松山城の両方に飼いならした犬を配置していて、敵が襲来したらすぐさま、援軍を依頼する文書を犬の首に付け放って連絡取り合っていたためであったと『関八州古戦録』には記されている。松山城が北条方の手に落ち、さらに岩付城周辺を北条勢力が取りかこむようになる永禄7年(1564)、太田資正・景時父子が里見方として国府台合戦に参戦している隙に、太田資正の子資房が北条に内応し太田資正は岩付城を追われることになり、岩付城は完全に北条勢力の城となる。北条氏に従属した太田資房(後に氏資)が亡くなると、岩付城は北条宗家の直接支配に置かれ、その後氏政の子源五郎、次いで北条氏房の支配する城となるが、天正18年、豊臣秀吉の関東侵攻により落城、長大な大構に守られた城・岩付城は中世城郭としてのその役割を終える。 <関連武将>太田資正、太田氏資、太田資頼</関連武将> <出典>関東の名城を歩く南関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)</出典>初沢町に位置するので、初沢城とも言われる。史料では、椚田城で出ている。高尾駅から八王子城とは、反対側にやや登りの道を進むと高尾みころも霊堂の特異な形の塔を目指す。その西側にそびえているのが椚田城跡のある初沢山である。霊堂の北側に登山道があり、軽い山登りの感覚で登ってゆく。頂上の尾根筋に達する前にも城の遺構らしいものもあり、城の中心部へ向かうやや開けた尾根に達する。本丸跡の西側は、初沢川に落ちる崖になっており、こちら側からの攻撃はできないであろう。帰りは新しい団地のある南側から初沢川の方向に降りると、高乗寺という立派な寺があり、この付近を領地に持った長井氏ゆかりの寺らしい。ここは、西側に高尾山口のある場所とは尾根1つを隔てた場所にあり、初沢川沿いに昔から開かれたところのようだ。 <地図> 椚田城は、JR,京王線の高尾駅の南にそびえる標高294mの初沢山にある。初沢山の北に南浅川、西に初沢川、東に湯殿川が流れており、要害の地である。またこの場所は、南浅川沿いに武蔵の国から甲斐国に通じる甲州街道を見下ろす位置でもある。湯殿川の流域を領国としていたのは長井氏であり、その長井氏が本拠としていた片倉城は、湯殿川の下流域にある。 <遺構> 椚田城は、西北から東南に走る初沢山の尾根山稜の頂上に主郭部があり、左右に尾根を掘り切っている。東北へ延びる支脈の先端にも郭とわずかながらも堀切がみられる。主郭部と東北にみられる支郭部のほぼ中間にも郭らしいものが確認されるが、これはいたって筒単なものである。東北隅の支郭部をめぐって犬走りのような削平地があり、この城郭の守備方面が東北にあったのではないかという予想が成り立つ。主郭部は四つの郭から構成され、大きなもので約150m2の面積がある。郭は実に有効な組合せをみせており、単なる狼煙台としての城郭ではなく、籠城用城郭の色彩が強い。 <歴史> 椚田城は椚田氏の居城であったともされているが、椚田氏は横山氏の庶流で、建暦3年(建保元、1213)5月、和田義盛の乱に際し、横山氏一族と共に和田義盛方として鎌倉で戦い没落した。長井氏は大江広元の子孫であるといわれている。築城の手法からみて15世紀末期と考えられるところから、椚田氏の当初からの城郭とするには時代的な差があるように思われる。この地方には長井氏関係の寺院が多い。しかし、永正元年(1504)9月、武蔵国立川一帯の多摩川を戦揚にして、山内上杉顕定・扇谷上杉朝艮が戦った立河原合戦に際し、扇谷上杉氏の被官長井八郎の名が知られている。同年十二月、山内勢は扇谷方の諸砦を抜いて相模に進撃するが、この時椚田城も落城したと思われる。この後、伊勢宗瑞が伊豆から相模に進出し、この付近が北条氏の氏配下になった際は、支城網の整備で、小仏峠方面の監視や滝山城、八王子城との連絡用の城として機能したかもしれない。 <関連武将>伊勢宗瑞</関連武将> <出典>日本城郭大系、むさし城址ウオーキング、多摩丘陵の古城址</出典>JR八高線の毛呂駅の近くには埼玉科大・短大と埼玉医大病院があり、その南側の山に向かう道を少し走ると、長栄寺の境内に入り、寺の境内には、毛呂山城の説明板もあり、こそ場所も館址と思われ、すぐ裏山の林の中に城の遺構を見ることができる。この場所は、高台で石尊山の裾野であり、埼玉医大病院の駐車場を見下ろすところである。戦国時代は相模国の小田原北条氏が上野国の関東管領上杉氏の領地に進攻するために作った山の辺の道の道筋に位置にあって、北条氏方になった茂呂氏が上杉氏から攻撃された城であった。 <地図> 八高線毛呂駅より1Km、県道飯能・寄居線の西側で、旧堀ノ内といわれる場所を含め、毛呂顕季の開山した長栄寺、さらにその背後の石尊山の山腹に至る地域が毛呂氏館址と考えられる。県道より長栄寺にかけての現在墓地となっている台地と、さらにこの台地より一段高くなる台地と、駐車場になっている台地とがある。さらにこれらの台地の上に長栄寺が立地しており、台地の端には、背後の石尊山の沢から分水して引水した溝の遺構がある。石尊山の中腹に位置する当館は、毛呂市街地はもとより日高方面まで展望できる絶好の地である。 <遺構> 長栄寺が位置する台地より下段に堀・土塁の遺構はなく、長栄寺背後の山腹に台地先端部を切り開いて造られた遺構が現存する。舌状に延びる尾根には幅4m、深さ2mの切通しをつけて尾根筋からの防禦施設としている。その下部は幅約10mの急な崖となり、山腹を開いた郭が存在する。北には尾根と並行して幅4mm、長さ10mの細長い郭があり、尾根づたいにある郭とは土塁によって区別されている。尾根の先端部の郭は背後の庄によってさえぎられ、台形の郭となっている。その南の15mx15mの場所は一段と高くなっている。 <歴史> 『毛呂氏系図』をみると、毛呂藤原氏は藤原鎌足の後裔で、鎌足から九代後の孫に当たるのが関白藤原実頼である。この実頼から五代目に大宰権帥季仲が出て、その子季清か初めて毛呂郷に住して毛呂氏を名のった。その子季光は源頼朝の信任が厚く、源氏一門に準じた破格の恩典に浴し、その子孫十五代がこの地に居住したと伝えられている。 <関連武将>北条氏綱</関連武将> <出典>日本城郭大系</出典>この城は戦国時代には、山内上杉氏、扇谷上杉氏、小田原北条氏、武田信玄、上杉謙信による攻防戦が展開された。現在も主要部分は残されているので、当時の様子を想像しながら城内を散策できる。城の特徴は、空堀の規模の大きさであろうか。また、武田信玄が城の下からトンネルを掘って攻撃したとか、小説に書いてあるが、近くにある吉見百穴から地盤がやや軟らかいことから、そのような話ができたのであろうか。吉見百穴に行く道路から城域を見ると、崖に穴が掘ってある場所もあり、そんなこともあったかも知れないと思える。 <地図> 松山城は丘陵先端部に位置する。北方から南流してきた市野川が城のある丘陵端にぶつかり、回りこむように西側に大きく蛇行した後に南東に向かい、城の北から西、南来方向にかけては、この市野川が形成した広大な低湿地帯に囲まれる自然の要害となっている。松山城の北西に接して駐車場完備の国指定史跡・吉見百穴があり、隣接する吉見町埋蔵文化財センターでは松山城から出土した土器などが展示されている。 <遺構> 松山城の郭構成は、西から東に向かって本郭・二の曲輪・三の曲輪・曲輪四が一直線上に並び、それらを取り囲むように笹曲輪・太鼓曲輪・兵糧倉跡・惣曲輪を始め太小さまざまな腰郭が配置されている.三の曲輪の北東に根古屋虎口が位置し、この虎口の北東側は根古屋であったとされる。また、三の曲輪の南には馬出が配され、さらに城の南東は現在、武蔵丘短期大学となっているが、かつて「御林」と呼ばれ、広大な外郭が存在していた。それぞれの郭の周囲には大規模な空堀と折れを持つ切岸がめぐるが、各郭には土塁がほとんど見られず、郭間の見通しが良い点で比企周辺の城のなかでは特異的である。松山城の縄張をみると郭の折れ、横矢掛かり、馬出などの技法が見えるものの、現地に立つと杉山城や小倉城のような「技巧的」な面は強く感じられない。何よりも感じるのは縦横にめぐる広大な堀の圧倒的な威圧感であろう。城の領域である丘陵頂部、約27000平方メートルのうち、堀と切岸の面積は二分の一強を占める。さらに各郭の土塁などを除いた実際に使用できる平坦面は約9000平方メートルと全体の三分の一にすぎず、大量の兵力により備えることよりも、より実戦的に城の構造そのものにより守備するという意図がうかがわれる。この堀を活かすためか、二の曲輪の折れをもつ堀を隔てた北側の帯郭は幅5mで長さ50mほどと細長く、兵が守備する帯郭というより根古屋虎口方面から二の曲輪へ直線的に侵入させない、また見通させないための巨大な壁のようであり、堀を活かすために郭の面積さえ削っているようすを見ることができる。松山城の根古屋は城の北東に位置し、ここに足軽衆による集落があり、この根古屋から城の南東の山の根にかけてが本来の松山城の城下であった。松山城と市野川を隔てて北西約1Kmに位置する松山本郷は、南へは河越・江戸へ、北へは村岡で荒川を、長井の渡で利根川を渡河し太田、足利に通じる街道上にある。これはかっての鎌倉街道上道下野線が入間川付近から分岐して北上したルートの一部が戦国時代に入り江戸・河越・松山といった政治的・軍事的重要拠点を結ぶ幹線道路として整備されたものである。その位置・距離関係からもわかるように本来は松山城とは別に発展・形成されていた宿場・町場であったが、北条氏の支配下となり松山城が境目の《点》としての城から領域として地域を支配する拠点となるに伴い、松山本郷が城下として松山城と一体に組み込まれていくこととなった。その後、上田氏が城主として領域を支配していく中で経済の中心地として統制を進め、さまざまな諸役の免除・保証・禁止・法度などの文書が出され、天正13年(1585)には松山本郷が手ぜまになったため、新たに宿を造らせたが、この新宿は松山城の南方、市野川の対岸に位置し、このことからより城下として管理・監督しようとした意図がうかがわれる。 <歴史> 松山城に関する文献資料は豊富だが、そのほとんどは戦記物であり築城の起源・詳細は明確でない。しかし、15世紀後半から16世紀初頭にかけて扇谷上杉氏と山内上杉氏の抗争の中に「松山張陣」「武州松山之儀」などの語がいくつか見られ、この頃に扇谷上杉氏の勢力圏のなかで築城されたと思われる。天文6年(1537)に武蔵国へ侵攻してきた北条氏が松山城を攻め、その後も北条氏と長尾景虎(上杉謙信)と結ぶ上杉氏方が数度にわたりこの城を奪い合い、武田信玄も甲相駿河盟のなかで参戦するなど、松山城をめぐって激しい戦いが繰り広げられた。永正6年(1563)に松山城が落城して北条氏による支配が確立したが、天正18年(1590) の豊臣秀吉による小田原攻めのなかで前田利家・上杉景勝らの北国勢に攻められ開城した。このように戦国時代を通じて松山城は絶えず合戦の場となった城であり、いかにこの城が重要な位置付けをされていたかがうかがわれる。戦国時代を通して数々の合戦が行われた松山城であるが、最もその攻防が激しかったのは天文末~永禄6年(1545頃~1563)にかけての北条氏綱・氏康と関東を追われた関東管領・上杉憲政に頼られた長尾景虎(以下上杉謙信)、また北条氏康と連合して参戦した武田信玄との戦国時代を代表する戦国大名三雄による覇権争いであった。天文15年(1546)4月の河越夜戦により扇谷上杉氏は滅亡した。上杉方の太田資正は松山城から上野へ逃れたが、同年8月には松山城を奪回し、上杉憲勝を城主に、上田朝直を城代とした。しかし、北条氏はふたたび松山城を攻め、その際に上田朝直が北条方に寝返ったため、再び北条方の城となるなど、松山城の支配をめぐって激しく攻守が入れ替わった。弘治元年(1555)、北条氏康が比企郡などに検地を行ない、永禄2年(1559)に小川原衆所領役帳で松山衆知行役高などが定められ、北条方の支配が安定したかにみえた。 しかし、越後に逃れた上杉憲政は上杉謙信に上杉氏の名跡と関東管領職を譲って北条氏討伐を要請し、上杉謙信は永禄3年(1560)に挙兵した。上杉軍には反北条の関東諸将が参陣し、軍勢は9万6000人余の大軍となり、小田原城を包囲した。上杉謙信の帰陣後、太田資正が永禄4年(1561)9月に松山城を攻め取り、上杉憲勝を城主としたが、同年11月には北条氏康・氏政と武田信玄の同盟軍が松山城を包囲した。翌永禄5年(1562)ふたたび北条・武田連合軍5万5000が松山城を包囲すると太田資正の籠城軍数千は苦戦し、上杉謙信に救援を求めた。上杉謙信はただちに出陣し、永禄6年には武蔵国石戸(北本市)まで着陣したが、2月4日に北条・武田軍の猛攻に耐えかねて2年におよぶ籠城の末、松山城は降伏した。松山城の攻防をめぐり、北条氏康・武田信玄・上杉謙信の三雄が軍を進めていることは、いかに関東の覇権を争うなかでこの城のもつ意義が重要であったかをうかがうことができる。天正18年(1590)2月には城主・上田憲定は小田原詰めを命じられた。豊臣軍との対決が色濃くなると松山宿には夜盗、前科者、負債のある者でも参陣し奔走すれば罪を許すという動員の制札が掲げられ、緊迫した状況となる。そして松山宿中の者は松山城危急の際は籠城し防備すると決意を申し出、それに対し上杉憲定は長年この松山宿で生活してきたからには、松山のために奔走するのは当然の務めである、松山城に籠城し奔走したものは自分が帰城のさいは望み通りに引き立てようと約束している。松山城の興亡は松山宿にとってもその興亡を左右し、城と宿がこの緊張した状況の中で一体化したのである。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原討伐の際に松山城主の上田憲定は小田原城に詰めていた。松山城は城代の上田河内守など約2300名が籠城していたが、前田利家・上杉景勝らの率いる北国勢に包囲されて落城した。 <関連武将>太田資正、北条氏康、武田信玄、上田朝直</関連武将> <出典>関東の名城を歩く南関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)</出典>城地には、学校が建っており、見学することはできないし、城の遺構もはっきりしない。城地は周囲から高い場所にあり、いかにも城址の地形である。横浜市歴史博物館から戦国まぼろしの蒔田城として、紹介されている。北条氏は、足利氏の血筋である吉良氏と血縁を結び、関東の国衆に対する権威付けを狙っていたようであるので、長尾景虎が相模国に攻めてした際は、戦闘能力のない吉良氏を避難させようとした。しかし、最終的には、古河公方の足利氏に取りいることに成功したので、吉良氏の権威を利用する事には、成らなかった。徳川家康は、吉良氏の朝廷へのパイプを利用して、征夷大将軍になったが、三河で隣接していた吉良氏に対しては、快く思っていたのか、忠臣蔵事件の際には、吉良氏の存続をなくす方向に動いたようである。 <地図> 横浜市営地下鉄の蒔田駅から鎌倉街道に出て、少し上大岡方面へ歩くと左手に丘陵が見えてくる。この丘陵の台地上に私立横浜英和学園があり、ここが蒔田城の跡である。 <遺構> 城址とされる場所は、大岡川に向かって突き出した標高約35mの舌状台地先端にあって、比高は27mほどである。現在は、私立横浜英和学園の敷地となっているため一般の立ち入りはできないが、学園建設時の地形改変が大きいため、城郭遺構らしいものを特に認めることができない。城地は200m四方ほどの広さがあって、南側がくびれている。そのため、一応は要害地形をなしているというものの、吉良頼康が 堅固な城郭をいくつも保持していたのは考えにくい。「武蔵風土記稿」にも塁壕に関する記述は見えないので、別邸とような施設だったと考えたほうが良いだろう。 <歴史> 蒔田城の築城については、吉良氏以前のことは不明であるが、この城は北条氏綱の三女崎姫を娶った吉良頼康の居城として有名である。その子氏朝も北条氏康の女香林院を迎えており、「北条記』の多目周防守の出陣の様子から古良氏を遇する北条氏の姿勢がうかがえる。なお、崎姫に持たせた叔父北条幻庵の「げんなん覚書」は有名である。蒔田城の位置は、西に大岡川が流れ、丘陵が海蝕崖をなして要害の地となっていることがわかる。城跡は、現在、私立横浜英和学園の校地となっていて、地形はまったく変形されており、井戸遺構のほかは、礼拝堂とその横手の本丸が確認できるのみである。 <関連武将>吉良頼康</関連武将> <出典>日本城郭大系、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>京浜急行線の神奈川駅から跨線橋に上がり、線路沿いに少し進むと右手に高台があり、その高まりに権現山城跡があり、今は桜の名所幸ヶ谷公園となっている。北西側は崖で、JR線、京浜急行線の線路に切り込まれている。その向こうの台地には昔アメリカ領事館が置かれていた本覚寺で、裏山が青木城址である。権現山城と青木城は一緒に書かれていることもあるので、当時はつながっていたと思われる。城の麓は神奈川湊だったはずで行って見ると、帷子川の河口付近で、いまも、埋め立て地の間には川の水路が残されている。 <地図> 権現山城の築城奢は明らかではないが、観応3年(正平7年1352)閏2月18日、足利尊氏は新田義宗・義興らに攻められ、鎌倉を逃れて武蔵狩野川の城に立て籠もったとされている。この狩野川の城を権現山城としている。また、権現山城について、「師岡保の豪族、伴氏一族の居城とかわった」として、いずれも権現山城と決めているか、必ずしも確証があるわけではない。同じく権現山について、「梅花無尽蔵」では、「古へ、群盗の聚る所」と伝えているのみである。その後、権現山城の名は見えない。北条氏時代になると本覚寺を中心郭として青木城と呼ばれるようになり、いつか楡現山城と靑木城とは別城のように認識されるようになった。しかし靑木城は、旧権現山城の一部に含まれていたことは、その立地からも明らかである。横浜駅北方の高島台の丘陵が東方へ延び、本覚寺を遥って国道一号線・東海道本線・京浜急行線を越えた先端部に権現山が位置する。江戸末期に作られた「神奈川砂子」の挿画権現山合戦には、海岸に迫り、切り立りた要害地形が描かれており、また、古くからこの海岸沿いに街道があったため、その 押さえとして要害が築かれていたことも想像される。現在、付近一帯は、安政6年(1859)から、神奈川台場築造の際、埋め立て用の土取り場として削平された上、市街地化が進み地形は一変している。また本覚寺との間にあったといわれる堀切も現在は道路、鉄道建設などによって失われているが、この部分は一段と低くなっている。このように権現山の旧態は消滅しており、さらに現在は、権現山という名称すらも失われて、幸ヶ谷公園という桜の名所となっている。 <遺構> JR東海道本線や京浜東北線の線路が通過するすぐ横、地形の高まった場所が幸ヶ谷公園である。目黒氏は、権現山が削られる前の近代初頭の地図で、山と周囲の寺社、山裾をカーブして通過する東海道の位置関係を詳細に検討した。そして公園の場所では西側に入りすぎているため、その東の尾根先端にあたる幸ヶ谷小学校・幼稚園の場所こそが権現山であると特定した。20世紀初めに山が削られて先端部が低くなってしまったのが、現在の景観の起源であった。かって、この部分がひときわ高くそびえていたのは、「神奈川砂子」の挿絵でもよくわかる。目黒氏の比定には、疑問の余地がない。そうすると、権現山と東海道、そして神奈川湊との関係が、これまでよりはるかに生き生きと浮かび上がってくる。現在は埋め立てで海岸線が遠くなっていつため、現地に立っても実感しづらいが、かっては狭い山裾で東海道がカーブしており、この地点をはさんだ一帯こそが、中世の江戸湾きっての湊だった神奈川湊である。権現山城は、 陸上・海上の交通がリンクする地点を押さえた戦略性の高い城であった。目黒氏は山上に熊野権現が祀られ、それが湊のシンボル的な存在だった可能性も指摘している。城がここに築かれたことは、地域社会にとって大きな変化を意味したに違いない。 <歴史> 城郭として具体的に権現山が現われるのは、永正7年(1510)、関東管領山内上杉顕定の戦死を契機としたいわゆる権現山合戦においてである。それまで扇谷上杉氏を支えてきた小田原の伊勢宗瑞は、長尾景春と共に、山内上杉氏と対立していた越後守護代長尾為景に通じ、両上杉氏に叛旗を翻した。そして、伊勢宗瑞はみずから駿河・伊豆・相模の兵を率いて、相模の住古の城を取り立て出張り、上杉朝良の被官上田蔵人を促して、武蔵神奈川の権現山に蜂起させた。これによってて権現山の合戦が始まる。関東管領上杉憲房は、みずからは白井にいて、長尾為景・長尾景春らと相対し、権現山へは上杉朝良を派遣し、加勢の成田下総守・渋江孫治郎・藤田虎寿丸・大石源左衛門・矢野安芸入道・成田中務丞ら2万騎を同7月11日に権現山に押し掛けさせた。合戦は11日の午の刻から19日の晩景に至るまで、昼夜の別なく行なわれ、寄せ手は新手を入れ替えながら人馬の息をもつがせず攻めかかうたので、ついに本覚寺山を藤田に攻め取られ、19日の夜半には城に火をかけて落ちている。 <関連武将>上田政盛、上杉朝良</関連武将> <出典>日本城郭大系、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>徳川家の260年間の権威の象徴だった江戸城は皇居の一部に公園として、一般公開されています。天守台、石垣、水堀など今残っている遺構を見ても徳川家が諸大名を権威で支配したことが実感できます。私は、関東の戦国時代の武将などを調べていますが、この江戸城は、太田資長(道灌)の築城した城や後北条氏が扇谷上杉氏から奪って、有力な支城として整備した城であったので、徳川時代の城の規模よりはるかに小さく、石垣などはなかったとしても、徳川家康が入城するときも、戦国時代のそれなりの城であったと思っています。徳川は、前の時代の城の遺構を消してしまおうとしたのでしょうか。この江戸城や小田原城などでそのような意図が感じられます。 <地図> 武蔵野台地の東縁(山の手台地)が東京湾に没する辺り、都区内東南部に残る壮大な平城跡(国特別史跡)。城跡というよりも、今は皇居として親しまれている。付近は、古くは武蔵国豊島郡江戸郷と称されたところ。その地名の起こりについては諸説があるが、入江(東京湾)に面した所、すなわち「江所」から出たとする見方が有力なようだ。ただ当時の江戸郷は、現在の皇居、大手町、丸の内、日本橋一帯のごく限られた地域であったらしい。秩父重継は江戸を氏とし、海べりの小鳥い地(現皇居東御苑付近)に館を構えたとみられている。そのころは、東方間近を隅田川が白く光って流れ、南には一面のヨシ原と浅海の波の打ち寄せる入江が広がっていたに違いない。江戸城は、入間川(現在の荒川・隅田川筋)・荒川(元荒川筋)などの武蔵東部の犬河川の河口部に位置し、江戸氏以来の江戸湊や相模や武蔵東北部、東方の房総・常陸方面と連絡する街道などが結節する交通の要衝であり、武蔵と下総の境目にも位置していた。当時、武蔵東部や下総に勢力を張っていた古河公方足利成氏に対する最南端の前線拠点として重きをなしていた。そのような軍事的な拠点としての役割とともに、太田資長の江戸や周辺地域の支配拠点としても重要な存在となっていた。 <遺構> 資長が江戸城に入部したのは、長禄元年(1457)頃と考えられており、一説には長禄三年(1459)とする史料もある。築城はそれ以前と考えられ、康正2年(1456)とする説がある。江戸城内に設けられていた静勝軒と付属施設である泊船亭(江亭)に掛けられていた詩文によると、城の構えは、崖の上にあり、土塁をめぐらした子城(本城)・中城・外城の三重の郭からなり、堀には橋が架けられ、城の出入り口は堅固な門で固められていたという。城内には主殿(静勝軒)、家臣の居住舎、物見櫓、倉庫、厩、武器庫、弓場があり、数百人の兵が軍事訓練を行なう姿が見られたという。このほか、付属施設である泊船亭・含雪や香月斎、道濯の招きで下向した万里集九が拠った『梅花無尽蔵』、菅原道真を祀った祠堂などもあった。また、観賞用に梅などが植えられていた。江戸城の設えは、軍事的な面だけでなく、文化人としての資長の人となりが伺える景観を呈していたらしい。資長時代の江戸城の正確な位置は不明であるが、現在の北の丸から本丸にのびる丘陵部を中心に構えられていたと考えられ、北の丸近くの国立近代美術館の地点からは、資長時代と考えられる遺物や遺構が発掘調査によって確認されている。小田原北条氏時代の江戸城の様子は、同時代の良好な史料もなく、資長時代よりも不明な点が多い。ただし、天正18年の家康江戸入部時の江戸城の様子を記した記録があるので、それらから当時の城の姿を垣間見てみよう。 開城当時の江戸城は、本丸・二の丸・三の丸があり、それらの郭の間には深い空堀が掘られていた。石垣などはなく、芝の土塁がめぐり、永い籠城策のために破損がひどく、屋根には土が塗られ、雨漏りもしていたという。また、台所は萱葺で、玄関の上り段は船板が用いられ板敷きもなく土間であったという。門は大手門と小田原門と呼ばれる扉のない木戸門のほか四、五ヵ所に海辺と土居とを連絡する小さな門や、小田原や鎌倉にはみられない舟人を備えていたという。小田原北条氏時代の江戸城は、位置的には資長時代の江戸城を踏襲しているものとみられる。構造的には、主要な郭は資長時代と同じように三つから構成されていたと考えられているが、次第に手が加えられ、少なくとも天正期までには戦国の城郭としての構えを整えていたものと考えられる。家康江戸入部の状況を書き記した記録類は、小田原北条氏の江戸城の姿を「一国と持ちたる大将の住たるにもあらず」とか、「あさましき」と酷評しているが、家康賛美のための筆使いであり、当時の江戸が家が点在する寂れた漁村であったというイメージを鵜呑みにすることは慎むべきであろう。 <歴史> 資長が文明18年(1486)暗殺された後、江戸城は上杉定正の管轄となり、その後、定正の家督を継いだ朝良が入城し、扇谷上杉氏の軍事拠点としての存続していた。資長の嫡子資康は甲斐に逃げて扇谷上杉氏に叛旗を翻したが、その子資高は扇谷上杉氏の宿老として復帰し、江戸城代を務めた。しかし、大永4年(1524)に小田原北条氏へ寝返り、 その手引きによって江戸城は落城する。資高の子康資も江戸城に あって、北条氏の下で江戸衆のなかでも江戸地域の最大領主として庇護されていた。しかし、永禄7年(1568)に康資は、小田原北条氏に謀叛を起こして房総へ退去し、以後江戸城と太田氏との関係は絶たれることになる。大永4年以後、江戸城は小田原北条氏が滅亡する天正18年(1590)まで北条氏の武蔵国支配の重要拠点として存続した。江戸城は、武蔵国豊島・荏原郡、下総国葛西郡および武蔵目多重・新座郡の一部を江戸及び江戸廻として管轄する地域支配の拠点でもあった。小田原北条氏は、江戸および江戸廻の地域を知行する家臣を江戸衆として組織し、その筆頭は永禄7年(1564)までは、江戸城代を務める江戸遠山氏であった。江戸遠山氏は大永4年の江戸城奪取後に、初代直景、二代綱景が城代であったが、永禄7年の第二次国府台合戦で綱景と嫡子隼人佐が討死したため、 家督を綱景の三男政景が継いで城代となったようであるが、その後その権限は北条綱成の子氏秀(江戸北条氏)に移された。天正11年(1583)氏秀が死去すると、翌年には氏秀の子乙松丸がその遺跡を継ぐが、乙松丸も早くに亡くなったらしく、江戸北条氏は断絶してしまう。その後、江戸城に入り、江戸地域のみならず武蔵国岩附・下総国関宿・同国佐倉領まで支配におよぶのは北条家当主の家督を氏直に譲り隠居した氏政であった。氏政は幼少の乙松丸の後見人として江戸城に拠ったらしく、江戸北条氏断絶後、江戸城にあって「御隠居様」と呼ばれ、武蔵と房総方面 の実質的な領国支配を行っていた。 <関連武将>太田資長、上杉朝興、北条氏綱、遠山綱景</関連武将> <出典>関東の名城を歩く 南関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)、むさしの城跡ウオーキング</出典>この城は、浄福寺城とも呼ばれる。この城址に行くには、高尾駅北口から西東京バスで大久保行き又は陣馬高原下行きで恩方事務所で下車し、少し戻って、浄福寺の脇から山道を登ります。浄福寺の道路脇には由井(浄福寺)城の説明板も設置してあります。山城の詳細な縄張りについては、出典にある「歴史家の城歩き(中井均・斎藤慎一)」に記述してあります。かなり急な山の尾根筋に縄張りが展開されていますが、復元整備はされてないので、縄張り図と見比べながら、城址を想像して歩くことになります。 城址の東側には圏央道の恩方トンネルが通っています。こちら側に下りると、高尾駅に行くバスの本数が多い、道路に出ることができます。 <地図> 八王子市西部の下恩方町、着た北浅川左岸の丘陵尾根の東端に築かれた山城である。関東山地の末端が、八王子盆地に開ける場所に位置する。新義真言宗浄福寺の裏山に位置することから、浄福寺とも呼ばれている。浄福寺観音堂の大永5年(1528)の古棟札に、「大檀那大石源左衛門入道道俊亦子息憲重」とあることから、大石道俊(定久)の築城と伝えられている。標高356m、比高約160mという要害城である。城跡の現状は山林であり、後世の手はほとんど加えられていないと思われる。八王子市の史跡に指定されているが、整備はまったくおこなわれていない、浄福寺の境内から続く山道を登りながら、尾根筋に点在する遺構を観察することになる。また、城の北側は、採石地となって崩されてきており、その東側は圏央道のルートになり、城の東端を浄福寺城トンネルが貫通している。 <遺構> この城は、標高356mのあまり広くない山頂部を主郭として、四方に延びる五筋の痩せ尾根を細かく堀切、狭小な郭を段上に作り出すことを特徴とする、山城である。こうしたことから、この城の最大の特徴は、郭面を確保せずに遮断に徹した縄張りを行っているところに求められる。居住性を配慮せず、実戦時における防御性のみを追究して徹底的に無駄を排除した縄張は、この城が極度の軍事的緊張状況下において構築されたものであることを示している。 <歴史> 新城とも呼ばれた浄福寺城は、浄福寺をはじめこの近辺の寺院の開基は大石氏によるとされるものが多く、大石氏の城と考えてよいと思われる。大石氏は、関東管領上杉氏の武蔵守護代を務めた、この地域の有力領主であり、各地に多くの伝承を残しているが、その系譜と本拠地については不明確な点が多い、法名道俊は、系図上では定久とされていて、北条氏照がその養子となり、大石領を継承したといわれてきた。しかし、道俊の活動時期と氏照の成人時期が少しずれているので氏照を養子にしたのは、その子憲重だという妥当な説がある。家督を譲った大石憲重が、滝山城から移り、この城に入ったと考えられる。また、大石氏を継承した氏照が最初に入城したのはこの城で、由井城と呼ぶ考え方も出されているが、この説はもう少し検討が必要である。問題は、何時、誰が、何のために築き、誰が城主であったかが、明確にならない点にある。伝承からすると、可能性が高いのは、大石道俊と息子の憲重であるが、道俊に関する伝承は広い範囲に残されており、その動きは特定できない。最終的な城主は、憲重と考えておきたい。 <関連武将>大石顕重</関連武将> <出典>日本城郭大系、関東の名城を歩く 南関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)、歴史家の城歩き(中井均・齋藤慎一)</出典>歴史上に出てくる菖蒲城ですが、市街地から離れた田んぼの中にある菖蒲園にすこし小高い場所に石碑と樹木があります。多分、こんな場所に城があったのだろうかと思える場所です。歴史の時代には、防禦が十分な山や丘でなくても十分に防禦できた場所だったのであろうか。2回ほど訪れましたが、菖蒲の最盛期では、なかったので、訪れて居る人もなく、時期が過ぎて、残り少なく咲いている菖蒲を撮影して帰りました。なお、これから紹介する城は、「東国の城址から想う戦国時代に生きた人々」http://eastcivil.na.coocan.jp として公開しているHPの一部です。機会があれば、そちらも覗いてみて下さい。 <地図> 菖蒲町は見沼代川水に沿って開かれた町で、関東ローム層の台地上にある。市街地から見沼代用水を渡って桶川の方へ行くと、水田の中に島状の畑地があり、菖蒲城の碑が建っている。一見、沖積層の盛り土にみえるが、実は関東ローム層の微高地である。そして南北に長く台地が広がっている。 <遺構> 城址の土塁・空堀などもわかっていたが、県道川越・架橋線の新設と耕地整理により一帯が削平されてしまい、遺構はわからなくなった。県道工事の土取りの際、鎌倉時代から室町時代の板石塔婆約二十基や大目茶碗・須恵器などが出土した。その板石塔婆は大きく、この地が鎌倉時代以来の豪族の居館地であったことがわかる。昭和48年には奈良時代の住居跡二戸と菖蒲城の堀跡が発見された。奈良時代以降、10センチ以上の泥土の堆積を伴う三回の大水害が認められ、菖蒲城はその二回目と三回目の水害の間に築かれた。 <歴史> 鎌倉公方足利成氏は関東管領上杉憲忠を殺し室町幕府と対立したため、康正元年6月、今川範忠ら幕府軍の攻撃を受けて鎌倉を追われ、武蔵府中から菖蒲に出て兵士を集めて下総国古河へ逃れ、この地で古河公方と称するようになった。以後、古河公方と関東管領上杉氏との対立のため関東は戦乱に明け暮れるのである。足利成氏は康正二年に金田式部則綱に命じて菖蒲城を築かせ、上杉勢に対する最前線とした。菖蒲城は北5キロの所に騎西城があり、上杉方の拠点の一つ河越城に対しての防備施設であった。こうして古河公方側は市川城・野田城・関宿城・菖蒲城・騎西城と上杉氏に対する防衛線を確立していった。菖蒲城の北・西・南は深い低湿地で、東が菖蒲町の台地へ行けるようになっていた。 <関連武将>足利成氏</関連武将> <出典>日本城郭大系</出典>神奈川県の城址に2つの小沢城がある。こちらの方が歴史的に古いと思うので、古小沢城としました。相模川上流部に架かる高田橋のに近くにある。城址の遺構が残っています。南側の城址は、相模川河畔から住宅や工場のある河岸段丘を上る小沢坂から右に入る細い 坂を上ると右手の崖の上に、今では畑地となっている平地が城址です。説明板も設置してあります。もう一つは、前田橋の袂に諏訪神社があり、車道から諏訪神社の急な石段を登り、さらに神社の裏の斜面を登ると、相模川との間には道路がありますが、すぐ下には相模川を望む尾根が続いており、ここも城址と云われます。樹木が茂っていて、狭い尾根なのだが堀切状の場所もあり、郭は無理としても、相模川の渡河地点を監視する砦としては、絶好の場所のように思います。 <地図> 相模川中流の丘陵地帯東岸の田名と相対する位置にある小沢は八王子と小田原を結ぶ主要な渡河地点の一つで、ことに近世以降において往来が盛んであった。小沢城は、中津の台地から北方に張り出す幅80mほどの舌状台地上にあって、この渡河地点を見下ろしている <遺構> 相模川西岸の河岸段丘が岬状に突き出た場所が城地で、標高は120m、東側からの比高は60mほどである。段丘崖が急峻であるため要害性には非常に優れており、眺望もよい。縄張りは、100m四方ほどの曲輪を、幅10m強の堀切で切り離した単郭式だが、堀切はかなり埋められており、崖面の北側の採石によって削られている。曲輪の周囲には土塁が断続的に残り、東側には虎口Aと腰曲輪が確認できる。おそらく この虎口Aから腰曲輪の経由して東麓と連絡していたであろう。東側に下っていく坂道の傍らにあるCの場所は、出丸のようだ。また、堀切が埋められたあたりに南側と連絡する虎口があったものと推測できる <歴史> 小沢城は「太田道灌状」を初見とし、文明9年(1477)長尾景春の乱に呼応して金子掃部助が「在所小沢 と申す所を要害に抱え」て立て龍もったとある。景春に加担して同時に兵を挙げた溝呂木・小磯両城は、わずか一日にして落城したが、小沢城は「難所にて落ち難く」(『鎌倉大草紙」)およそ二か月ほど経た四月十八日まで持ちこたえている。金子掃部助は、翌年、再度小沢城に立て籠もったが、長尾景春方の拠点小机城が落ちると間もなく、小沢城は自落している。さて、『太田道灌状』にいう「在所小沢と申す所」の小沢城の位置について問題がある。小沢の地には、小沢城と小沢古城の二城が現在確認されているが、このうちいずれが道灌状にいう小沢城にあたるのか。現在の小沢城の遺構のうちには後北条時代の規模(堀幅16m、深さ5mほど)を持つものがある。一方遺構・郭の配置からみると、小沢古城のほうが古期の形態を示していることは疑いない。そして、一般にこの小沢古城を武蔵七党の一つ横山党の小沢氏の拠った城とし、小沢城のほうを金子掃部助が立て龍もった小沢城としている。景春の乱後の金子氏は、「小田原衆所領役帳」には、「拾貫文小沢金子新五郎」とあり、その後も在地土豪族として存続している。したがって後北条時代にも小沢城が引き続き利用されたと考えられる。城址の北端、すなわち舌状台地の先端部は採土のため焼滅しているが、南側には城地を中津の台地から独立させる堀切がある。その北側に東西約60m、 南北約70mの郭があり、「城の内」と呼ばれている。郭の北側には、非常に緩やかではあるが、高さ1mほどの土塁の痕跡が残っている。小沢部落から城地へ2本の道がある。一本は城の内の東側中腹を回って堀切の中に入る城坂で、この道の頭上、すなわち城の内の 東北側中段に長さ約50m、幅約5mの腰郭が並行して城坂を押さえている。他の1本は城坂より西に峰伝いを通る鳥居坂であるが、両道とも堀切に入ってから中津の台地へとぬけるようになっている。堀切は堀道として利用されると共に、たえず城内から監視できる構成になっている。 <出典>日本城郭大系、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>この城は武蔵国と上野国の国境にあるため戦国時代には上杉氏、後北条氏、武田氏の抗争の舞台になった所にあった。上杉憲政の居城平井城も近くにある。金鑚神社は立派な神社で、その本殿の脇から細い渓流に沿って山道を登っていくと、途中鏡岩の所から急斜面を登るようになる。尾根に達すると石仏などある平場に出る。ここも郭址と思われる。そこから岩場を登ると見晴らしのきく岩場がある。城はこの山の尾根筋に構築されていたと思われるが、この険しい山城での攻防戦は、過酷な戦いだったろうし、戦国の兵士達の辛さを思わずにはいられない。<地図>御嶽山城は、上武国境の境目の埼玉県神川町の金鑚神社の裏山にある。山頂の本郭と山頂下の谷頭に置かれた屋敷地と思われる平場を中心に狭い五本の尾根を数多く堀切って造られた城郭である。<遺構>本郭北の鞍部に設けられた幅6m、深さ4mの堀切1を夾んで北側に本城最大の二の郭が置かれる。二の郭は最大幅20m、奥行き58m程あり、北端に土塁がある。この下方の崖部に岩盤を掘り抜いた堀切2を置き、その下に腰郭1がある。この尾根にはさらに切り落しを加えながら三段に腰郭が配置される。北東部に延びる尾根には二の郭の土塁西端に造られた虎口からの通路が見られ、露出する岩盤をうまく利用したと見られる切り落しや、堀切を配置し、北側の尾根先端部に比高3mほどの高台がある。これは西尾根のあり方や、東尾根のあり方と同じであるので、櫓台を意識した造りと考えられる。また、北東尾根の付け根には切岸を補充したと見られる幅3m、高さ50cmの石積が存在する。主郭に向かってのぼる痩せ尾根には堀切が二ヵ所配置され、本郭下の堀切5は10mの規模で切り落とされる。本郭は20mx30mで標高343.4mの御嶽山頂上にある。山腹斜面部は切岸となり、急崖で、のぼり詰めることはできない。南尾根は岩盤が各所に露出する狭い尾根であるが、本郭下は、2mほど切り落とされ下部に三ヵ所の平場がある。これらは腰郭か、修験に伴う祠跡か判断できない。本郭西下7mには幅3mほどの帯郭が置かれ、西尾根方向と北尾根の2の郭へつながる。西尾根は腰郭から狭い鞍部を通じて西に延び、鞍部は6m切り落とされ堀切8となる。その先は幅6~9mの緩やかな平坦地で、腰郭として整形された痕跡がある。両サイドは切り落とされ、急斜面になる。さらに尾根中央部付近に二ヵ所の堀切があり、一つは7mに切り落とされる規模の大きい堀切10である。尾根先端部には幅14m、長さ24mの西郭が置かれ、尾根先端部は丸く、比高8mほど高くなっているが、櫓台として整形された痕跡はない。西郭の南側は緩やかな斜面で、渡瀬地区からの大手筋とみられる。坂道両サイドは高さ1~1.5mの段築が9段ほど構築される。この造りは花園城に類似する。本郭西の谷には一部に石積を伴う大きな平場があり、いずれも堀切10,9につながっている。屋敷地であろう。<歴史>本城は上武国境の境目の城として16世紀後半には激しい争奪戦が行われている。記録される最初の合戦は天文21年(1552)1月~3月の金讃御嶽城合戦で、安保泰広の守る金讃御嶽城を北条氏康が攻略した。身延文庫蔵「仁王経科注見聞私」奥書しは「天文20年の冬北条氏康が北関東へ出陣をもくろみ、翌年2月には金讃の御嶽城を攻め、2月15日には金讃神社を含め全山を焼き打ち、3月には落城させた。城主安保信濃守入道泰広(全隆)と息子中務大輔泰忠は降参して助けられたが、残り数千人は一人残らず討ち死にした雑兵数千人は水の手を断たれて乾死した」とその壮絶な戦いの様子が記されている。なお、城主安保全隆が天文3年(1534)に金讃神社に寄進した多宝塔(重要文化財)が金讃神社に現存している。永禄5年(1562)には乙千代は秩父左衛門尉に用土新左衛門の御嶽城普請に合力し、忠節を尽くすよう指示している。永禄12年、武田氏は西上野から北武蔵地域へも進軍し、5月には橋頭堡を確保するために武田氏の派遣した浅利右馬介とともに上武の境目に向城を築いた。また、「甲陽軍艦」には高崎市の山名城と鷹巣城の間に新しく築城と記されてるなど、武田氏が隊後北条戦を意識して、軍事的基盤の確保を図っていたことを類推させる記録がのこされる。この時、金讃御嶽城は、後北条氏持城で平沢(長井)豊後守政実が城主として、置かれていたらしい。しかし、後北条氏のこの処置に対して、浄法寺氏が異議を唱え、平沢(後長井を名のる)政実は、人質を鉢形城に入れ、金讃御嶽城に後北条の軍勢をいれるよう申し出た。北条氏康は金讃御嶽城の中枢をなす中城・本城に氏邦の軍勢をいれている。後北条軍入城は、鉢形勢のみでなく、後北条氏として対処したようで、北条氏照の金讃御嶽番衆に対する感状ものこされている。この時期、秩父には立沢筋や阿熊。三山における武田軍の侵入が記録されるので西上野からの武田軍の動きは上武国境全体で展開していたのだろう。武田軍は改めて9月9日に、金讃御嶽城を攻撃し、10日は鉢形城へも総攻撃をかけ、北条氏邦に「手負死人無際限」といわしめるほどの多くの被害を被っている。その後、武田軍は永禄12年19日から26日まで秩父に在陣し「人民断絶」と記す。元亀元年伊豆侵攻を終えると、武田信玄はその矛先を北武蔵に向け、6月5日には金讃御嶽城を攻略した。すぐに普請を行い武器兵糧を移し、数千人の兵を在城させている。この時太田氏の調略によって武田氏に付いた長井政実は金讃神社に「今度当城之儀、如存分達本意」として社領を寄進している。元亀2年12月の甲相一和を受け、元亀3年11月8日金讃御嶽城は後北条氏に武田氏から返還されている。天文21年の金讃一帯の焼き打ちをはじめとして、金讃御嶽城をめぐる攻防戦は永禄・元亀年間を通じて上武国境境目の要衝であるが故に激しいものであったことが知られる。<関連武将>北条氏康、武田信玄</関連武将><出典>関東の名城を歩く南関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)</出典>戦国時代のこの城は山内上杉氏・扇谷上杉氏と小田原北条氏との戦いが展開されていました。中でも日本3大夜戦の1つ河越夜戦が有名ですが、戦記物には、詳細な合戦の様子が描かれていますが、実際の歴史は、あまり分かっていないようです。ただ、北条氏康が大勝利を収めたことで、扇谷上杉氏は滅亡し、山内上杉氏の凋落のきっかけであったし、多くの上杉氏配下の国衆たちが、小田原北条氏につくようになったことでは、歴史の転換期の舞台だったことは間違いないでしょう。 <地図> 河越城は関東管領扇谷上杉持朝が足利成氏(古河公方)に対抗するために、長禄元年に太田道真・道灌父子に命じて築城したものである。川越市は東京の都心から約40キロで、池袋から1時間たらずの近くにある。河越城は、地質学的にいう武蔵野台地のもっとも東北端に位置しており、入間川が城の西から北にかけて大きく曲がって流れている。北に赤間川、東に伊佐沼を擁し、南は泥湿地である台地の先端の要害の地である。またここは、遠方から渡ってくる雁が、ここに米て初めて鳴くといわれており、「三芳野の里」として歌枕に名高い所でもあった。 <遺構> 太田道真・道灌は、江戸城・河越城をともに康正二年(一四五六)に築城を始め翌年の長禄元年に完成している。この当時の河越城は、あまり大きなものではなく、後の本丸と二の丸を合わせたくらいの規模であった。 <歴史> 扇谷上杉氏は、この河越城に6代にわたり約80年間城主として君臨した。しかし太田道灌が文明18年(1486)、相模の糟屋(伊勢原市)で主君扇谷上杉定正に謀殺されるにおよんで、山内・扇谷の両上杉氏は内部抗争をくり返していった。この時期に伊豆・相模方面では、伊勢宗瑞が扇谷上杉氏に属していた大森藤頼の小田原城を明応4年(1495)に奪取し関東地方に勢力を伸ばしつつあった。永正16年(1519)に伊勢宗瑞は死亡したが、その子北条氏綱は、大永4年(1524)、扇谷上杉朝興の居城であった江戸城を攻め落とした。敗れて河越城に拠った上杉朝興は、現在の蕨市に蕨城を築城し江戸城に対抗したが、天文6年(1537)に五十歳で没したのである。跡を継いだ子の上杉朝定は、わずか十三歳であった。この好機を逸せず北条氏綱は河越城を攻め、同年7月15日、上杉朝定を松山城に追い払い、13年余の歳月を費やして、ついに扇谷上杉氏の本拠河越城を手中に収めた。そして北条綱成を城代として置いた。このような北条氏の関東侵略に対して両上杉氏は、同14年10月、古河公方足利晴氏と手を組み北条氏康(氏綱の子)に対抗して河越城を奪還すべく8万余騎の連合軍を結成した。足利晴氏は河越城の南の砂久保(川越市指定史跡)に陣を布き、山内上杉憲政は小田原城の備えとして、狭山市の柏原(狭山市指定史跡城山)に陣を張って河越城を完全に包囲した。この時、河越城に籠城していた守将は北条綱成であり、3千余騎であった。翌15年4月、北条氏康は小田原より馬廻衆8千の手勢を引きつれて武蔵府中に着陣した。しかし8万の大軍と戦うには 普通の合戦では勝利はないと考えた北条氏康は、謀略と攬乱戦術を川いた。再三再四にわたって出撃しては、そのたびに府中の陣に逃げ帰った。このため包囲陣の中に、北条氏康を侮るおごりの気風が強くなってきた。この時を待っていた北条軍は、4月20日夜、上杉氏に対して決戦をいどんだのである。まず敵と味方とを区別するために鎧の上に白い胴肩衣をつけ、たとえ敵であっても白い胴肩衣をつけているものは討ってはならない、また敵を倒してもその首を取ってはならないことを徹底させ、闇にまぎれて敵陣に切り込んでいった。このため不意をつかれた包囲陣は狼狽し、味方同士で斬り合う者、武器を持たず逃げ出す者が続出し、戦う者はわずかであった。時を同じくして籠城していた兵たちも打って出たために、両上杉氏の連合軍は大敗北を喫してしまった。特に松山口にあたる東明寺付近では戦いはもっとも激しく、扇谷上杉朝定は討死し、山内上杉憲政は上野平井城に敗走し、足利晴氏も下総国古河に退却した。この夜戦を境として北条氏の川越領有は決定的となったのである。北条氏康は、城代の半年に及ぶ河越城籠城を賞すると共に、北条綱成に代えて大導寺政繁を城代に起用した。わずか8千の兵をもって8万騎を打ち破ったこの合戦が、日本三大合戦の一つに数えられる「川越夜戦」であった東明寺合戦とも天文の乱ともいう)。さらに天文20年正月、山内上杉憲政は越後の長尾景虎(上杉謙信)をたよって平井城を出奔した。ここに関八州はすべて北条氏の領有するところとなった。北条氏康は元亀2年(1571)に没し北条氏政・氏直の時代となるが、天正18年(1590)に至り、豊臣秀吉の関東攻略に際し、河越城は前田利家に攻められ落城した。そして、徳川家康が北条氏の旧所領を引き継ぎ一族や家臣団を従えて関東に移ったが、みずからは江戸城を修復して居館とし、三河以来の近臣を枢要な地に配して領国の安定をはかった。川越城には酒井河内守重忠を城主として1万石を与えている。これ以降廃藩となる明治時代までの約二百七十年問にわたって河越城は江戸城の出城のごとく重要視され、さらに江戸市民に対する物資の供給地としての位置にもあったため、城主には重臣・譜代の大名が配置され、交替も激しく行なわれた。 <関連武将>太田資清、上杉定正、上杉朝興、上杉朝定、北条氏綱、北条氏康</関連武将> <出典>日本城郭大系</出典>五十子陣は、関東管領上杉氏が古河に居をかまえた足利公方に対抗するために広範囲の場所に構築した陣地であり、歴史史料には、よく出てくる所です。しかし、やや古い時代のもので、城としての地形の遺構などや案内は、見当たらなく、民家や畠が広がっているだけです。一度しか行ったことがないので、広く歩き回れば、何かの遺構などもあるとは思います。なお、これから紹介する城は、「東国の城址から想う戦国時代に生きた人々」http://eastcivil.na.coocan.jpとして公開しているHPの一部です。機会があれば、そちらも覗いてみて下さい。 <地図> 本庄市の市街地の東南部、国道17号線とJR高崎線、女堀川と小山川に囲まれた広い範囲に、この陣があったと想定される。陣は関東が戦国期的な様相となる享徳3年(1454)の享徳の乱勃発後に間もなくして構築され、文明9年(1477)頃まで機能していた。享徳の乱は、東上野・下野・上総・上総・安房などの利根川よりも東を勢力圏とした古河公方足利成氏方と、西上野・武蔵・相模・伊豆などの利根川よりも西 を勢力圏とした関東管領上杉氏方との争いであった。その間の上杉氏方の本陣として、この陣は構築された。五十子陣の立地条件を考えるうえで重要なのは、利根川である。すなわち、西関東(および越後)を南北に連携する必要のあった上杉氏方は、利根川の渡河の関係で幹線道路となっていた鎌倉街道上道および分岐線を活用できる位置にあり、かつ、本国の上野に移動するために安全に利根川を渡河できる地点を掌握する必要があった。加えて、旧利根川(現広瀬川)が両陣営のおおむね勢力圏境であったので、拠点はその近辺である必要もある。ただし、利根川の氾濫原上での長期の在陣は不安定である。そのため、本庄台地の東北端に位置する五十子が選地されたのだろう。そうすることで、陣の北側は低地と台地との境界が防御のための崖ともなり、さらに南~東側にかけては小山川や志戸川が流下しているため、陣として好適な条件にあったと考えられる。 <遺構> 近年になって五十子周辺の発掘調査が進んだ結果、西五十子台遺跡、東五十子城跡遺跡、西五十子大塚遺跡、六反田遺跡、東五十子赤坂遺跡、東本庄遺跡などが五十子陣に関する遺跡であることが明らかになってきた。その分布は、おおよそ東西2キロ弱、南北1キロ強の広範囲にわたっている。これを裏付けるように、文献史料では、文明9年(1477)1月に上杉氏方が五十子陣から撤退した際、放火した煙が三日間止まなかったと記されている。陣の内部構成については、守護管轄下の武士をそれぞれ動員した、越後・山内・扇谷の各上杉氏によって成り立っていた。京都からの援軍や伊豆堀越公方の軍勢も在陣していたが、大きくは上記の三軍勢によって構成されていた。 <歴史> 享徳3年(1454)12月に享徳の乱が開始されてから後に、足利成氏は古河へ移動し、栗橋・関宿・騎西などの拠点に諸城を取り立てていった。対する上杉氏方は、松山・河越・岩付・江戸などに諸城を築城し、五十子に本陣を築いた。また、上杉氏方を支援していた京都室町幕府は、長禄2年(1458)に将軍足利義政の弟の足利政知を 関東に下向させている(堀越公方)。そのため、同年9月頃には、京都下りの軍勢や 上杉氏方の軍勢が五十子に集結ている。文明3年(1471)4月、五十子陣から出撃した上杉氏方は新田荘から足利荘を攻め、6月には足利成氏を古河から追った。しかしながら、翌同4年2月には古河は足利成氏によって回復されており、逆に同5年11月には五十子陣は足利成氏方に攻められ、扇谷上杉政真が死去している。同8年6月、山内上杉氏の家宰職を継げずに不満を持っていた自井長尾景春が蜂起したために、 攻撃を受けた陣は崩壊した。五十子陣には合戦に参加した戦闘員のみでなく、合戦とは直接関係のない人々も在陣することがあった。長禄4年(1460)12月、前年4月に鎌倉の鶴岡八幡宮若宮別当に還補された弘尊は、還補の謝意を兼ねて五十子に赴いた。また、寛正2年(1461)8月、越後国善照寺の寺僧である増弥は五十子陣において、越後守護上杉房定 の判物を得ている。文正元年(1466)9月頃、連歌師の宗祇が五十子陣を訪れており、山内上杉氏家宰の白井長尾景信の主催による連歌会に参加している。さらに、年次は未であるが、五十子では千句連歌会が行われている、このことから、千句の行なわれた江戸や河越と同じように、五十子は文化の中心地の一つであったことになろう。文明8年(1476)6月、長尾景春の乱が勃発したことで、五十子陣下へ出入ノ諸商人之往復通路ヲ指塞」がれ、「糧道」を絶たれて、上杉氏方は陣から撤退した。そのため、五十予陣は交通の要衝に位置し、商人が出入りしていたことがわかる。文明4年(1472)頃、岩松氏が上杉氏方を裏切るとの噂が五十子陣に広まったため、岩松氏重臣の横瀬氏は「足弱(老幼婦女子)」を五十子陣下に人質として差し出した。翌朝には、「足弱以下幼稚・幼若之子葉孫枝」が五十子陣下に送られているように、陣には人質も在陣していた。 <関連武将>上杉房顕、上杉顕定、長尾景信、長尾景春、太田資長、足利成氏</関連武将> <出典>関東の名城を歩く南関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)</出典>この城は遺構や歴史の項に示すように、大規模な発掘調査が行われ、歴史上にも関係が深い城と思われるが、近くの日野沢川沿いにある温泉施設の近くから城のあった山域を眺めただけで城域には行かなかった。城域は珪石鉱山として開発されていると言われので、行っても城の遺構はないのだろうと思ったからである。したがって、城を訪問したことにはならないが、歴史上の長尾景春が太田資長(道灌)に攻められ、秩父地方の山城に籠ったというときの一つの城であることを想像した。 <地図> 高松城は秩父盆地のおおむね北部に当たり、城峯山塊(1038m)のほぼ南東端に占地している。北緯三六度五分、東経一三九度。城の南麓を荒川の一支流である日野沢川が急崖を形成し、東は金沢川が南流し、その合流点より北東方500m、通称龍ヶ谷山と呼ばれる山の頂で、背後に山の神山(標高368m)が控える天然の要害である。出牛峠を越え、北へ児玉町に通じている児玉街道沿いに当たり、城址より東南東に皆野町大字三沢の龍ヶ谷城と、南方に秩父市大野原の諏訪城が眺望され、日野沢川を挾んで南に旗塚が対峙している。ここより北へ児玉街道沿いに進んで皆野町出牛峠を越え身馴川沿いに進めば児玉町の雉ヶ岡城、さらに本圧市の五十子城に通じている。この街道はいわゆる高松筋といわれるもので、甲斐武田勢の侵攻踏の一つにもあげられているものである。 <遺構> 昭和49年、当該遺跡が珪石鉱山として開発されるに当たり、近い将来城址の消滅が予測されるに及び、高松城総合調査会が設けられ、同調査団が発掘調査を委嘱され、同年11月より1か年にわたり、自然・考古・歴史・民俗の各分野にわたって調査を行なった。発掘は当該城址のほぼ繩張り内において、6か所の郭と、6か所の空堀がその対象とされ、総面積は5484平方メートル、およそ百余日にわたって投入された人員は1704人に達した。調査はグリッド方式により、繩張り内のほぼ全面発掘の形がとられた。発掘された建造物の遺構は、いずれも礎石は用いられておらず、基盤の珪石および泥板岩の岩盤に深い札穴をうがった堀立柱の構造で、山頂の平坦部のほぼ中央に3間×5間、9尺×3間の二棟の建造物跡、一段下がった南の平坦部に2間×4間、東に土橋が残された空堀を渡った平坦部に9尺×3間、 繩張りの北端部に2間×4間の柱列を残す遺構が確認された。建造物の遺構のほか、山頂部の3間×4間の建造物跡の南端近くに径・深さとも60センチの井戸跡が発掘され、六か所の空堀は、その断面が箱薬研形で、北方大手口より二番目の空堀3の底部には、二本の橋脚の柱穴がうがたれており、空堀5は中央に土橋が残される構造を持つものであった。出土遺物についてその概要を記すと、武具類では刀子・鎧の小札・刀剣の柄頭、生活用具類では陶製の甕・鉢、上製の碗・小皿・土鍋・描鉢・燈明皿・手あぶり火鉢、磁器では青磁・白磁・染付(青花)などがみられたが、いずれも小皿・小鉢の類の小物が多く、石製品では石臼・砥石、鉄製品では構築物に使用された釘多数、木器は器形不明の塗物の破片が出土している。備蓄米粒が火を受けて炭化したものであろう、米・大麦・小豆・粟のほか、梅の種子などが多量に出土した。銭貨は中国渡来の銭貨に限られ、開元通宝から永楽通宝までが繩張り内で散発的に発掘された。出土遺物の主なものについて列挙したが、これらのほとんどが、郭1・郭2の外縁に集約されて出土しており、続いて郭3・空堀3・空堀5がこれに続いている。言い換えれば、山頂部に多出していることになる。 <歴史> 高松城については『北武蔵名跡志』にしばしば記載がみられる。日野沢村の項には、「小地名龍ヶ谷と云、山は古城跡ありて其麓を根小屋と云、長尾氏の住しは茲にて文明12年(1480)六月廿四日長尾景春入道伊玄が守処の秩父日野要害没落とあるも日野は日野沢にて此所なるべし」とあり、当時から城址として知られていた。関東管領山内上杉顕定か家宰職を白井長尾氏の景信の死後、惣社長尾氏の忠景に継がせたので、景信の嫡子景春は顕定の処置を恨み、古河公方足利成氏に味方して同8年に叛乱を起こした。しかし太田資長の攻略に敗れて秩父に籠もり、この日最後の拠点が陥落して、4年間に及んだ景春の乱は終わったのである。しかし景春に関する記録はいずれも口碑伝承の域を出ず確証が乏しい。たとえば同じく『北武蔵名跡志』日尾村の項には「鎌倉大草紙」に文明十二年六月廿四日長尾景春が守所の秩父日野要害没落とあるも日野は誤にて日尾なるべき歟。亦は日野沢にも古城跡あるは日野は日野沢なるか未考」との 記載もあり、日野沢・日野・日尾を混同しており、日野沢の高松城、日野の熊倉城、日尾の日尾城のいずれにも景春がかかわり合ったことを伝えている。また『新編武蔵国風土記稿』下日野沢村高松城の項に「村の東にありて、登ること凡そ十町にして、山上平坦四十間四方許、所々堀切り等今猶存せり、鉢形北条氏邦の臣、逸見若狭守の城墟なり、若狭守子孫野巻村に塾居し、今野巻村の各(名)主役を勤む」とある。逸見若扶守は、「鉢形北条家臣分限録」によると、秩父郡野巻村と本田の甲斐八幡で千百五十貫 (異説七百五十貫)を領し、侍大将の地位にあったことが知られる。武田と逸見両氏の確執以来秩父に来て高松城を本拠とした。小田原の後北条氏が関東を席巻するに及びその支配下に入り、鉢形城の北条氏に所属して、秩父郡小桂村・野巻村・深沢村、榛沢郡飯塚村・末野村、男余郡藤田村の六か村を宰領し、北条氏邦の侍大将を勤めたことが知られている。鉢形城内の三の丸に館を有し、家老の黒沢・大野・加藤駿河および本郷越前らと軒を並べ、しかもその館付近は逸見郭と呼ばれていた。鉢形落城の後、逸見若狭守は男余郡白岩村八幡神社に一時落ち着き、跡を孫の与八郎義貞に譲り、自らは野巻村に隠遁し、子孫は代々里圧を勤めた。延徳3年(1491)、北条早雲は堀越に公方足利茶々丸を攻め殺して伊豆を手中にした。そして明応4年(1495)には小田原の大森藤頼を攻略し、ここを拠点に関東制前の機をうかがった。天文15年(1546)、早雲の孫氏康による川越夜戦の後、武蔵における両上杉氏の勢力は崩れ、氏康の子氏政の代にはほぼ関東一円を掌中に収めた。一方、本能寺の変後、明智光秀を山崎に破った豊臣秀吉は、天正13年(1585)、太田三楽斎資正に書状を送り関東平定の意志を示し、同15年、九州を平定して関東出陣の構えを示した。北条氏もこれに抗戦の構えをみせたが、和平の道が選ばれた。しかし北条氏の同17年10月の名胡桃城の攻略が秀吉の激怒するところとなり、小田原征討の軍が起こされた。上州口から南下した上杉・前田の車勢は4月には松山城を攻略し、ついで川越城を落城させ、勢いに乗じて軍勢は降伏した地侍を案内役に立てて鉢形城に押し寄せ、東は前田利家、南は上杉景勝、西は本多忠勝、北は真田昌幸の総勢五万余の軍勢が鉢形城を包囲した。この間、岩槻城は浅野長吉・木村秀直によって火攻めに遭い、忍城は石田三成によって水攻めに遭い、支城はことごとく落城し、鉢形城はまったく孤立した。城兵は地の利を生かして苦戦したが、一か月後の同18年6月18日に降伏、落城した。この時、攻囲軍が城の南東方の車山から城内へ大筒をもって砲撃し、ついに支え切れず、この新兵器の前に屈したともいわれている。やがてこれらの軍勢は小田原城の攻囲に結集したため北条軍は抗し切れず、ついに7月全面降伏し、早雲の小田原入城以来86年で関東郷覇の地位を秀吉の手中に渡すことになった。高松城は小田原後北条氏の支城である鉢形城の支城としての役割を果たしており、その終焉は鉢形開城に先立ってのことであろうと考えられる。 <関連武将>長尾景春</関連武将> <出典>日本城郭大系</出典>分倍河原駅を見下ろす位置、多摩川沿岸の低い土地を見下ろす位置にある高安寺城。高安寺の駅前に新田義貞の銅像があるようにこの付近は、鎌倉時代、室町時代に多摩川の渡河点近くということで、何度も合戦が行われた所です。また、江戸時代の甲州街道は高安寺の前を通っています。大相撲の大関に「高安(たかやす)」がいますが、テレビで放送を見るたびにこの城址の事を思い出します。呼び名はともかく、高安とは、面白い組み合わせですね。 <地図> JR南部線と京王線の分倍河原駅から、北側に坂道を登ると右手の丘陵上に高安寺がある。高安寺の南側は、多摩川の氾濫原に面して、かなりの崖になっており、北側は甲州街道に面している。東には大國魂神社境内にある国衙跡、東南方向に多摩川を渡る関戸がるり、昔から交通の要衝の場所だった。高安寺本堂背後の林地はやや広い平地になっており、西と南は斜面で、何者かの館があったのであろう。 東に国衛をひかえ、武蔵の中心地に位置していたことから、鎌倉・室町時代を通じて、しばしば戦乱にまきこまれており、往時を伝えるものをすべて失ってしまったが、東・西・南の三方には堀の跡が残り、寺が城砦化されていたことを物語っている。 <遺構> 高安寺はもと市川山見性寺と号し、天慶3年(940)、俵藤太秀郷が武蔵守として下ってきた時の館址に秀郷が開基となって建立したものといわれるが、藤原秀郷が武蔵守に任ぜられた事実はなく、伝説であろう。のちに足利尊氏が中興となって、見性寺をあらため「竜門山等持院高安護国禅寺」と号したと寺伝にある。寺号は尊氏の法号である等持院仁山妙義からつけたといわれ、足利氏ゆかりの寺となった。また、高安寺は武蔵国安国寺と目されているが、その明証はない。往時は塔頭10院、末寺75寺を数える大伽藍で、その寺域は四里四方に及んだという。高安寺は戦略的拠点にあったため、鎌倉府の出城的存在となり、寺の周囲に土塁や空堀を巡らし、砦と化しでいたものと思われる。戦国期になっても高安寺はその位置的重要性から公方・上杉氏・後北条氏など、関東における中心勢力の利用するところとなった。 <歴史> 正慶2年(元弘3、1333)、新田義貞は分倍河原で鎌倉北条勢と戦い、これを打ち破った。この時、新田義貞は高安寺を拠点にしたという。室町時代になると、高安寺は鎌倉公方足利氏との結びつきを深くし、鎌倉公方はその敵を討つためしばしば出陣したが、常に高安寺に本陣を置いている。二代鎌倉公方氏満は応安元年(正平23,1368)の河越合戦に、永徳元年(弘和元、1331)の小山義政征伐に、三代満兼は応永6年(1339)大内義弘に呼応して幕府に飯旗を翻して高安寺に陣を進めている。四代足利持氏は応永30年、常陸小栗氏・下野宇都官氏を討つため高安寺に出陣したが、幕府と対立したため、翌31年に同寺を焼いて鎌倉へ帰っている。永享10年(1438)、足利持氏は関東管領上杉憲実を討たんと高安寺に出陣したが、上杉憲実支援の幕府軍に敗れて自滅した。 <関連武将>足利持氏</関連武将> <出典>日本城郭大系</出典>北本市の石戸宿に入ると北里大学看護専門学校の敷地付近に石戸神社、東光寺から荒川方面に向かうと北本市子供公園の低地に木と草地の自然がある。この場所は沼地だったようで、一夜堤を渡ると西側に樹木に覆われた丘陵があり、そこが石戸城の城域である。丘陵の縁に沿って小径があるが、城域は民家の敷地のようで、城の遺構を確認することはできなかった、荒川に近づくと桜堤の上には車道が走っており、荒川の河川敷だろうか運動公園がある。<地図>石戸城は西に荒川の流れを望みながら北に延びる舌状台地上にある。北から東にかけては深田、南は桶川市川田谷地区に台地続きとなっている。<遺構>現在、城址は山林となり、古くからの農家などがあるが、その中に東西20m、南北30mの本丸跡や土塁の一部などが残っている。なお、この城は天神山城とも称されたが、天神社の位置まで城域とすると範囲はさらに広がることになる。また、この城址から東へ600mの同市大字石戸宿字堀の内の東光寺境内付近も館址であり、わずかに土塁・水堀が残っている。城主は『吾妻鏡』にみえる石戸左衛門尉と推定されるが、蒲冠者源範頼ともされている。蒲冠者については同寺にある蒲桜(天然記念物)伝説によるものであろう。また、同寺境内には貞永2年(1233)をはじめとする鎌倉期の板石塔婆が数居あり、石戸の地が中世以来かなりの豪族の住するところであったと思われる。<歴史>室町中期の長禄のころ(1457~60年)には、 扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門が在城したともいう。戦国時代(16世紀)に入ると、岩槻城と松山城の中間に位置していたため、度々城をめぐる攻防戦が繰り返されたようだ。大永5年(1525)、小田原北条氏二代氏綱は、岩槻城に拠る上杉方の部将太田資頼を攻撃。追われた太田資頼が石戸城に入ったことが史実にみえる。永禄5年(1562)には、北条氏邦が毛利丹後守が守る石戸城を攻めたが、沼地にはばまれて容易に落とせなかった。そこで沼地を渡る土橋を構築して一挙に攻略したという。北条氏邦は土橋をひと晩で築いたとされ、その跡が”二枚堤”と呼ばれて、今も残る。<関連武将>太田資頼、北条氏邦</関連武将><出典>日本城郭大系、むさし城跡ウオーキング</出典>鴨沢城は、史料の中に曖昧に記された城で、伊勢宗瑞が陣城として、築いたのか、三浦氏が築いたのかもはっきりしないようである。訪問したとき、城址の近くで農作業をしていた人が、わざわざ戦いで戦死した人びとの墓を案内してくれて、説明もしてくれたが、内容は、ここに書かれているようなものを越えるものでは、無かった。 <地図> 鴨沢城は、複雑に開析された余綾丘陵のただ中にあり、城地の標高は117m、比高60mほどである。城地の南側を中村川が流れているが、一見してさほどの要害地形とも思えない。伊勢宗瑞が扇谷上杉氏家臣の三浦氏の領国相模国中郡に進出する際、築いたとすると、東方に位置する岡崎城攻撃の前進基地だったのも思える。 <遺構> 鴨沢城の最高所である押切山の西に堀切Aがあり、これを夾んで城内側に櫓台、城外側に土塁がある。ここから南東に140mほど下がったBの位置と、北東に派生する尾根上のCにも堀切を確認できる。ほかにも、竪堀や段切り状の地形が確認できるが、全体として粗放な構造で明確な曲輪を造らず、城というよりは野戦陣地に近い印象を受ける。鴨沢要害は、おそらく、数百程度の兵力を宿営させることに主眼を おいた施設で、敵の攻撃からこの場所を堅守する意志はないのだろう。城地の前後を画する堀切は、宿営地の範囲を確定するとともに、夜襲などを防ぐためのものと思われる。 <歴史> 今川氏親麾下の部将として、今川氏と扇谷上杉氏との連携関係の中で伊豆や足柄地域の支配権を得ていた伊勢宗瑞は、永正6年頃から次第に今川氏の指揮を離れて独自に行動し、扇谷上杉氏の領国を侵食しはじめる。こうした時期に、相模平野への進出を策する前線基地として、伊勢宗瑞が築いたのが鴨沢要害と思われる。この鴨沢要害の近くで、扇谷上杉朝良・三浦義同の率いる軍が伊勢宗瑞の軍と合戦し、三浦氏家臣の武和泉守が戦死したと思われる。 <関連武将>伊勢宗瑞、上杉朝良</関連武将> <出典>日本城郭大系、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>高麗寺山城と同じく、伊勢宗瑞が、権現山城に上田氏を上杉氏から離反させた際に、後詰めとして、陣城とした城で、史料では住吉城とあるが、西股氏も述べられているように、昔から防御性のある館の山下長者屋敷がそれにあたると思われる。位置は高麗寺山の北側の山裾の平坦地にあり、屋敷は個人の住宅となっているので、入ることが、出来ないので、土塁の一部が残る門の近くや曽我祐成の妾だった虎御前が生まれた場所との伝承で近くに祀ってある所や屋敷の周りは新しい民家やアパートに取り巻かれているが、その境界に空堀跡と思われる場所などがあった。伊勢宗瑞の軍は相模湾から花水川、支流の住吉川を利用してアクセスしたのではないかと想像してみる。 <地図> 大磯丘陵北麓の裾が金目川低湿地に突き出した緩斜面上にある。当地を「新編相模国風土記稿」は、山下長者宅蹟の伝承地として紹介している。山下長者が何者かは不明であるが、古くはここが住吉と称された可能性があるところから、この長者屋敷こそがは住吉要害であろう。史料および立地条件を検討すると、住吉要害にこの山下長者屋敷をあてるほうが妥当性が強い、以下、その理由を列挙する。 一、当地の遺構が単なる屋敷構えの規模を超え、小城塞の機能を持うている。二、近くに住吉社や住吉川があって、一帯を住吉と呼んでいた可能性がある。三、当地は高麗寺から2㎞ほど北方に位置し、相互の防衛や支援のみたらず、北方の三浦一族の拠点岡崎皺に備え得る有利な場所である。四、これに対し三浦住吉は、三浦勢力圏の真只中に位置するうえ、高麗寺からは30㎞余あり、現実的に支援の実効性は極めて少ない。 <遺構> 住吉城は、大きく南東部が突出した形態で、本来は土塁・空堀が全周していたとみられる。土塁は散在する程度しか残っていないが、西南端で高さが3m以上あり、上に稲荷の石祠があって櫓台のように見える。東南部の土塁は道沿いから眺められる唯一の遺構である。外周には幅5mほどの堀が巡っていたが、現在ではほとんどが埋められ西南部がわずかに残る。この部分がクランクして隅に入っているのは珍しく、裏鬼門ともいう。ここでは土塁も西辺と南辺で分かれ、間を低くつないだような形態である。 <歴史> 永正7年(1510)7月、権現山合戦に応じて伊勢宗瑞が蜂起した際に拠った「住吉の要害」と考えたい。当時、岡崎には扇谷側の三浦義同があり、永正6年11月まで鎌倉は旧勢力下にあり、史料面からも早雲進出の形跡はなく、また大庭城も旧勢力の拠点として存在していた。同9年の 岡崎・大庭の落城を考えると、7年頃の早雲の勢力圏は一時的にも金目川以西とすべきであろう。 <関連武将>伊勢宗瑞</関連武将> <出典>日本城郭大系、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>滝山城は、中世の城の特徴を示す代表的な城であろうと思う。八王子駅から浅川を渡って北上すると正面に多摩川と谷地川に挟まれた加住台地が見えてくる。さらにR411に沿って、しばらく進むと右手に樹木に囲まれた滝山城がある。この城は加住台地上に多摩川を 防禦ラインとして、空堀で囲まれた多くの郭を複雑な展開している。築城は大石氏のようだが、現在のように大きな城に改築したのは、北条氏照である。この城の最大のピンチは武田信玄によって攻められたときで、史料には、二丸まで攻め込まれたが、武田信玄が小田原城攻めに向かったので、落城は免れたとされている。実際はどうだったのだろうか。 <地図> 西から続く加住台地が多摩川によって断崖を形成する。その崖上に滝山城があり、多摩川からの比高は50-80mで、南麓の丹木地区から の比高は30-150mである。北条家は上杉謙信の越山に対応した領国の支配網を形成する必要に迫られた。ところが北条氏照が城主であった由井城は甲斐国に向いており、上杉謙信の越山に不向きな拠点であった。そこで登場したのが滝山城だった。小田原から上野国へと至る 街道は関東平野の西端の山麓を突き抜けており、その街道に沿って北条家の重要な拠点である滝山城と鉢形城が配置されている。 このことは滝山城の取り立てに小田原北条家の意図があったことをうかがわせる。関東の戦国城下町は、城主との関係でしばしば二重構造になっていたとされる。滝山城では二重構造の外側の城下町が八幡宿から東にあった。八幡宿・八日市・横山の町場である。現在の八王子市街地、江戸時代の八王子宿の中心的な町場である。江戸時代の地誌によれば、滝山城下町に成立した三つの町場は、その後、八王子城下に移り、そして現在の地に至ったと記載している。町だけではなくいくつかの寺院も移転を繰り返した。滝山城下町は現在の八王子市街地の起源になっていたのだった。町場から先は現在の国道16号線の左入にあたる。つまり、左入の交差点から西はもう滝山城の城域にあたる。中世城館にしてこれだけの広さを持つのかと驚嘆せざるをえないが、それはどの規模を滝山城は誇っていたのだった。 <遺構> 平成8年(1996)に実施された本丸枡形門の調査は注目できる。床面びっしりと河原石が敷き詰められており、排水用の側溝が床面の両側の設けられていた。一部は暗渠にもなっており、本丸の排水処理が考えられていることがうかがえた。このあとに本拠となる八王子城と比べて、石材利用法が異なる。割石を積み上げる八王子城と河原石を敷くにとどまる滝山城という対比は、北条氏照の築城について考えさせる。北条氏照が滝山城に入城したのは、青梅に拠点を据える上杉謙信方の三田氏を滅ぼした後で、かつ永禄10年(1567)に至るまでであった。それ以前に滝山城が存在していたかはまだわかっていないが、仮に存在していたとしても、北条氏照入城後に本拠として大きく拡張されたことは違いない。大きな城域に比して、本丸周辺が小さな郭群であることはそのことを語っているのかもしれない。 他方、北条氏照の本拠らしさを語るのは、まず丘陵を囲い込む雄大な横堀である。本丸の三方には取り囲むように、中の丸・一の丸・千畳敷・小宮曲輪が配置される。それらの郭群の外側を横堀が一筆で廻る。距離が長く、規模の大きな横堀は、中世城館は多数のこるといっても簡単にお目にかかれるものではない。滝山城の大きな見所である。広大な城域をひとまとめにするこの横堀は、滝山城の完成期の遺構と推定でき、北条氏照段階の滝山城を理解する鍵になる遺構でろう。そして今ひとつ注目したいのは、二の丸の虎□である。二の丸は北側の中の丸へと接続し、東・南・西の三方を外側として虎口を構えている。三口とも先の長大な横堀と関係している。堀を渡った地点にはいずれも郭馬出(周囲を堀が取り巻く方形の区画。内側の郭の出口正面を守り、かっ外側に向けて門を配する)を構えている。この構造は豊臣秀吉が築いた聚楽第の構造にも通じる。このうち西側の虎口は尾根沿いに展開する郭との連絡のものであるが、 東・南のものは外部に通じる道筋と直接に関連するものである。とりわけ、東側の虎口は二の丸内部に巨大な桝形門を構え、外側の郭馬出も巨大なものである。このことから、東の虎口を通過する道筋が滝山城の大手道と考えられる。二の丸泉の虎口を出丸道は、台地上を地形に沿って東へと進む。左手には信濃屋敷・刑部屋敷・カゾノ屋敷と呼ばれる家臣屋敷の推定址がある。その外には主尾根を大きく切り裂く堀切がある。東方面はこの堀切が滝山城中心部の限界となる。道をさらに東へ尾根沿いに500mほど進むと、分岐点がある。 大手道はここで谷へ下る。谷の途中には戦国期が起源とされる少林寺を左手に見て、道は麓の滝山街道へと下る。実はこの交差点付近は八幡宿と呼ばれた城下町の一角にあたった。他方、二の丸南の虎口を出た道はそのまま谷へと下る。この谷は鍛冶谷戸と呼ばれる。谷を出目は滝山街道である。滝山街道には並行して旧道が走る。この旧道には三力所ほど鍵の手に曲がる場所があり、城下町の一角と指摘されている。特段の伝承もないが、あるいは家臣団などが住んだ空間であろうか。この周辺にはクラヤシキと呼ばれる場所もある。 北条鎖国の数力所には年貢を収納する蔵が設置されていた。その一力所が滝山にあった。滝山城の真下にあるこのクラヤシキはあるいはその場所かもしれない。ところで先の鍛冶谷戸であるが、鍛冶と聞いて思い出すことがある。戦国時代以来、八王子には下原鍛冶と呼ばれる刀工集団がいた。由井城の北にその発祥の地があり、大石家および北条氏照に仕えていた。その中には北条氏照より「照」の一字を拝領し、照重を名乗る一流もいた。すなわち直属の職人集団と考えられる。そしてこの刀工は氏照の本拠移転に付きしたがって移動したと考えられている。あるいはこの鍛冶谷戸がその作刀場所なのではなかろうか。 <歴史> 滝山城の築城の起源は明らかではなく、一説に16世紀前半に関東管領山内上杉家の重臣大石家によって築かれたという。大石家は15世紀後半以降に八王子周辺で勢力をもっていた。永正年間(1504~20)に由井城(浄福寺城)を構えて本拠としていたと考えられる。16世紀前半、戦国大名北条氏綱の勢力が次第に武蔵国におよぶにいたり、大石家は北条家に接近し、天文年間(1532)~55)末には北条氏綱の子息北条氏照を養子に迎え、家督を譲る。時は上杉謙信の越山が開始される直前であった。永禄3年(1560)から天正2年(1574)に至るまで、上杉謙信は何度となく関東平野に越山する。最初の越山に際しては遠く小田原城まで攻め込み、鶴岡八幡宮では関東管領の就任式まで行っている。滝山城が受けた最大の城攻めは永禄12年(1569)の武田信玄による城攻めであろう。上杉謙信に対抗するため、北条・武田・今川三家で同盟を結んでいる時期があった。武田信玄はこの同盟を一方的に破棄し、駿河国へと侵攻し、戦国大名今川家を滅亡させる。一度は甲斐国に勢を納めた信玄は12月に碓氷峠より関東平野に侵攻する。この軍勢が滝山城を襲った。江戸時代の軍記物には、この時、滝山城は二の丸まで陥落し、落城寸前にまで至ったと記している。しかし、事実は違うようである。城主北条氏照は防衛のために宿の三つの入り口に軍勢を送ってt武田信玄の襲来に備えた。二日間にわたって攻防戦が行なわれたが、武田勢は攻め込むことができず、三日目の夜半に武相国境杉山峠(現、御殿峠)を越えて小田原に向かって行った。北条氏照はこの攻防戦について、「たびたびの戦いに勝利した」と宣伝している。事の実否は計り知れないが、軍勢の消耗を避けた信玄は小田原への道を急いだというのが実態ではなかろうか。いずれにせよ滝山城は武田信玄の猛攻に堪えた名城と言えよう。北条領国の重要な一翼を担った滝山城も上杉謙信が没すると、重要性が減じる。そして時代は西に警鐘を鳴らす。この政治地図の変化が滝山城を不要とし、八王子城を生み出していくことになる。戦国大名北条家の城といえば小田原城ということになろう。 <関連武将>大石定久、北条氏照、武田信玄</関連武将> <出典>日本城郭大系、関東の名城を歩く 南関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)、よみがえる滝山城(中田正光)</出典>この城には、ハイキング気分で、季節によっては、桜や野の花を楽しみながら、登れます。津久井湖畔から登るのが、便利ですが、昔は津久井湖は無く相模川上流域の渓谷は深く、城への道は根小屋地区にあったと思われます。城の遺跡のある城山へは、結構な登りですが、良く整備された道があるので、色々のコースを選べます。歴史上は、北条氏と武田信玄がたたかった三増峠と合戦では、北条方だった内藤氏は、武田信玄に押さえられたのか、城を出て戦っていない。また、小田原合戦の後は、徳川家康軍が城に来ているが、戦ったことはなかったようです。根小屋地区や志田地区には、武田信玄軍や徳川軍がきたことを示す遺跡があります。 <地図> 「築井古城、相の之築井の県宝ヶ峰に在り。宝ヶ峰介立すること百餘仞、相水の陰に聳え、上岐れて双丘と為る。東丘に飯縄祠有り、其の西丘を古城と為す。塁壁の址、儼として存す-」城山と呼称される独立峰の頂に建つ「築井古城記」碑に刻まれた長文の一説である。石碑は、城主内藤氏の家臣であった島崎氏の子孫が江戸時代に、津久井城の記憶が時とともに薄れることを憂い、私財を投じて建てたものだという。市指定文化財となっているこの石碑の前に立つと、まだ風化しない鮮明な刻文が私たちを歴史の旅へと誘ってくれる。 碑を背にすると、城山の南側に広がる金原台地を見下ろすことができる。三増合戦の伝承を緒所にのこす金原台地は、江戸時代に城下をあらわす「根小屋」という村名がつけられており、城の記憶を現代に繋ぐ。城山・・津久井城は、現在県立津久井湖城山公園として整備が進められている。歴史と自然を調和し里山風景を活かした整備・活用方針が示されており、歴史ファンのみならず家族連れなど、多くの人でにぎわっている。冒頭で触れた碑文の内容であるが、序文は津久井城の立地環境を良く伝えている。「築井古城、相の之築井の県宝ケ峰に在り。宝ケ峰介立すること百餘、相水の陰に聳え」の部分は、「津久井城跡は相模国、津久井県の宝ヶ峰にある。宝ヶ峰は独立峰として高く、相模川のほとりにそびえ」と読むことができる。北側を険峻な崖と相模川の流れで阻み南東側を串川によって隔てた独立峰である津久井城はそのまま天然の要害であり、また、古くからの交通の要衝でもあった。現在は相模川をせき止めたダム湖である津久井湖が城山の北西に広がる。津久井城のすぐ北側には国道413号線が通り、関東平野と山梨方面を繋ぐ道として多くの人々が往来する。 JR線・京王線橋本駅方面からこの国道を下つてくると、正面に津久井城の威容が現れ、その山城としての険峻さをみることができる。 <遺構> 津久井湖にのぞむ、標高375mの急峻な独立山に築かれている。比高は、観光センター側からで220m、根本のパークセンター側から200mほどで、遠方からでもよく目立つ。曲輪群は、主郭1を中心として尾根上に展開していく。興味深いのは、土塁で囲んだ堡塁状の曲輪や枡形虎口を多用していることだ。曲輪群4・5・6・7は堡塁と枡形を連想させたような縄張りとなっていて、随所に石積みの痕跡が残っている。その一方で堀切の使用は少なく曲輪群7の側背面以外では三ヵ所しは堀切を用いていない。尾根を堀切で遮断する意識よりも、堡塁による防御の意識が卓越した縄張りと評価できるだろう。枡形虎口を備えた曲輪3の内部からは、発掘調査で蔵の遺構が見つかっている。この蔵は、曲輪3の中心部を占拠するような大きな建物で、曲輪3は蔵・虎口・通路で占められており、居住施設は建てようがない。これまで何度か行われてきた発掘調査でも、山上の曲輪群から建物跡はほとんど見つかっていない。その一方で、 通路の造作は現在、地表面で観察できるよりもっと細かく、石積みを多用していたことが判明している。津久井城の縄張りを特徴づけるもう一つの要素が、山腹を刻む多数の長大な竪堀で、そのうちの八本は山麓まで達している。これほどまでに長大な竪堀が、なぜ何本も必要だったのか、具体的にはよくわからない。しかし、傾斜が比較的急な斜面では、総じて竪堀が短めであることを考えると、やはり緩斜面での敵兵の行動を徹底的に制約する意図を持って堀削されたのであろう。また、曲輪群4の周囲には、南関東では珍しい畝状竪堀群がびっしりと施工されている。このほか、城の南西側の麓には城主だった内藤氏の屋敷があって、土塁や堀で囲まれた区画の中に建物群が建っていたことが、発掘調査で判明している。徳川氏の関東入国に伴い、この「御屋敷跡」には代官の守谷氏や野村氏が入って陣屋を構えたが、17世紀半ばを過ぎる頃には使われなくなったようだ。 <歴史> 津久井城は鎌倉時代に築井(津久井)太郎次郎義胤が築いたとされるが、伝承の域を出ていない。明らかになってくるのは戦国時代である。大永5年(1525)には津久井城の名が文献上で初出する。『妙法寺記(勝山記)』によれば、「此年武田殿ト新九郎殿ト合戦ヒマナシ(中略)未津久井ノ城不落」とあり、武田氏と北条氏が国境付近で盛んに戦闘を行なっていたことがわかる。後北条氏が相模国で勢力を拡大していた頃のことである。築城伝承の真偽はともかくとして、城山が大規模に山城として改造されたのはこの頃からであるとみられる。戦国時代の津久井城主内藤氏は、前述の「築井古城記」碑では、内藤景定、景豊の二名を挙げているが、近年の研究では内藤大和人道、朝行、康行、綱秀、直行の五代が在ったというのが定説になっている。内藤氏の出自に関しては未だ議論が分かれるが、扇谷上杉氏につきしたがっていた可能性が高いとみられている。永禄2年(1559)の『北条氏所領役帳』によれば、内藤氏の所領は 津久井城周辺と現厚木市南部に多くみられ、1202貫と、後北条氏家臣のなかでも非常に多い貫高を有していることが分かる。内藤氏は北条氏家臣団「津久井衆」の筆頭として登場する。津久井衆というのは津久井地域(おもに現在の相模原市緑区)を所領としていた集団であるが、前述の『北条氏所領役帳』のなかでも特異な集団である。その理由のひとつとして前書内の津久井衆の項の随所に書がれている「敵知行半所務」ということが挙げられよう。この語は、北条、武田両方の支配を受けていたということを意味する。当時「奥三保」と呼ばれた現相模原市緑区の西側部分は甲斐との境にあり、後北条氏、武田氏の微妙な力関係に翻弄される地であった。村々とそれを預かる津久井衆は、自衛のために北条、武田の間合いを計る方針を執っていたのではないだろうか。近年発露した天正12年(1584)の「城掟」には北条氏の意のままにならない津久井城の姿が描かれており興味深い。津久井城が、歴史上で名を馳せる戦に登場するのは、永禄12(1569)年の「三増峠の戦い」のときである。甲斐を発して碓氷峠を越え、北条方の城を攻めつつ小田原城を取り囲んだ武田信玄は、その帰路を津久井方面にとった。そこで追撃する北条軍と山岳戦を繰り広げるのである。双方合わせた戦死者は4000人ほどと、かなりの規模の戦闘だったらしい。合戦の舞台は津久井城から近距離にあるが、津久井城からの出撃記録はない。そこで津久井城の周囲を見渡してみると、武田信玄の足跡が伝説となってのこっている場所が数多くある。津久井城けん制のために兵を潜ませた「隠し沢」、60体の藁人形を作って津久井城を欺いた「六十面」などである。これらは、信玄がその際に通行したと伝えられる「信玄道」を軸として広がっている。 伝説の真偽はともかくとして、武田信玄との戦いがこの地域にとっていかにインパクトがあったものかを示しているのではないだろうか。豊臣秀吉は小田原攻めにともない、諸将に近隣の主要城郭を攻撃させている。津久井城も徳川勢の本多忠勝、平岩親吉らに攻められ、落城。天正18年(1590)6月25日に接収されている。なお、ここでも津久井城周辺での戦闘に関しては、わずかに小競り合いの記録がのこるのみである。落城後、関東は徳川氏の支配下に置かれる。津久井衆たちはそれぞれ帰農したとみられ、現在に至っても津久井地域には津久井衆の名字が多くのこる。津久井城は徳川の支配のもと、改修が行われ、麓には陣屋が置かれた。今でも「おじんや」「牢屋の沢」など、陣屋に関係する伝承地名がのこる。陣屋は、代官の守屋左太夫らが使用していたとみられている。守屋左太夫は、に津久井衆に名を連ねる守屋若狭守の家系である。 <出典>関東の名城を歩く(峰岸純夫・齋藤慎一)、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>この城には二回訪れた。いずれも藤田氏の菩提寺である善導寺から秩父鉄道沿いの道を少し西に行った所から城山の麓にある小さな神社への石段を登って、山道を行くと樹木のなかに竪堀を見ることができる。この城の特徴として、石積みや岩を削った堀などが多く見られることである。本丸跡は山頂部にあり石碑が立てられている。鉢形城とは荒川を隔てているが、その地域には藤田の字も残っており、藤田氏の支配領域だったことが今でも残っている。 <地図> 花園城は、寄居町末野字城山に所在し、標高約200mの山頂を利用した山城である。城から北には山並みが連なり、南には荒川が流れている。城の北側の山腹は急な勾配を有するのに対して、南側はなだらかな山腹となっている。山裾南には藤田氏ゆかりの善導寺、東へ約1Km行ったところには正龍寺がある。特に正龍寺には、藤田康邦夫妻・北条氏邦夫妻の宝篋印塔による墓が存在している。城の南、荒川左岸の段丘面には、伝藤田氏館がある。大きさは一町四方で、土塁が一部残り、その外側に堀跡と考えられるは幅約3m、深さ1.5mの小川が流れている。土塁と河川との比高差は約3mである、藤田館の北には、現在国道140号線が東西に走っているが、その沿線には「小下宿」・「下本宿」・「上本宿」・「上宿」という宿地名、その近くには「拾人小路」なる字名ものこっている。近年、16世紀になって鉢形城を起点とした山の辺の道(鉢形・毛呂・勝沼・当麻を結ぶ道)が、鎌倉街道上道に代わって重要な道となることが解明 されており、花園城周辺も遅くとも16世紀までに宿の発展がみられるようになったことだろう。 <遺構> 山頂の尾根には、岩盤をくりぬいた五つの堀切によって、東西方向に、四つの郭が存在する。堀切はクランク状に配置され、上幅約5~7mという大規模なもので、なかには、南側斜面にある竪堀と連結するものもある。山頂から山裾まで続く竪堀は、四本確認でき、その中には二重堀もみられ、最大幅約16mである。城への登り口はいくつか想定されるものの、現状では善導寺の西にある神社から登るのが容易である。本郭は東西約60m、南北約15mの不整形で、内部には高低差が認められる。本郭の東と二の郭の間には、岩盤を掘削した掘切がみられる。二の郭は、東西約27m、南北約15~30の広さで、東へ行くほど狭くなっている。東の郭は整形が明確ではない。山上の郭から南には、幅約1.5m~2mの腰郭が段階状に多くみられ、そこには石積が多用されている。また、石積により、枡形状の動線が設けされているところもある。石材は結晶片岩系であり、小型石材を小口積みして最頂部に大型石材を平積みしている。石材は、堀切・竪堀の造作に伴って、山内の岩盤から切り出したものを利用したとおもわれる。大規模な岩盤掘削の状況から、専門の石工による造作と推測される。 <歴史> 花園山(城)の初見史料は、今のところ、天正17年(1589)正月3日付、「北条氏邦印判状写」で、北条氏邦が、20人の飛脚・末野の「かね打」に屋敷と「花園山」を安堵したことである。そもそも花園城あたりは藤田氏の所領内にあった。藤田氏は武蔵国藤田郷(現在の埼玉県大里郡寄居町)を本拠に鎌倉時代以来存在した一族である。16世紀、後北条氏が武蔵へ進出するに際して、藤田康邦は北条氏康の3男氏邦を婿に迎え、以後藤田の嫡流は氏邦が継ぎ、康邦の実子らは用土氏を名乗るようになる。北条氏邦は、永禄年間(1558~70年)頃には、花園城から南東2.5キロにある鉢形城(大里郡寄居町)に入り、藤田氏の旧領を対象に検地を実施し、本格的な鉢形領支配が進められた。そのさい、花園城も氏邦の支配下に入ったとみられる。しかし天正18年(1590)5月、豊臣秀吉軍の進撃に伴い、鉢形城は落城しているが、花園城も同様の運命にあったのではないかと思われる。 <関連武将>藤田康邦、北条氏邦</関連武将> <出典>関東の名城を歩く南関東編(峰岸純夫・齋藤慎一)</出典>地下鉄の駅から近いので、訪問しやすい城跡であり、発掘調査されて城址公園として整備されているので、中世の城址の雰囲気を味わうことができる。歴史史料からは、戦国時代の城主は不明であるが、近くの神奈川湊、小机城などとの関連から、小田原北条氏の時代には、兵站基地や支城の小机城の補助的役割を担ったのではなかろうか。江戸時代には、近隣村の草刈り場として、保護され、徳川による破城から免れ、当時の遺構が残されたのであろうか。 <地図> 横浜市北部に広がる港北ニュータウンのほぼ中央、鶴見川の支流・早渕川の南岸に、茅ケ崎城は存在する。昭和49年(1974)の港北ニュータウン基本計画で、遺跡の現況保存の方針が掲げられて以降、1990から98年にかけて七回の調査が実施された。2008年6月には茅ケ崎城址公園として整備され、築城当時の遺構を良好な形でのこす中世城郭跡として有名である。古くから、地元で「城山」と呼ばれる。城の北側に東西に走る道は、かって神奈川湊から小仇城を経て、武蔵国府中までをむすぶ街道であり、茅ヶ崎城は、河川および街道交通における関所の役目を果たしていたと考えられている。 <遺構> 茅ヶ崎城は、早淵川の南岸に沿って延びる台地の突端付近に築かれていて、主郭面の標高は約34m、比高は20mほどである。縄張りを見ると、城域の最高所に主郭1を置き、これを夾むように東・北・西に曲輪を配し、それぞれの曲輪を空堀で区画している。総じて横掘による防御の意識が明瞭な縄張りといえるが、各曲輪の平面形は自然地形に従って不整なもので、直線的に整形する指向を持たない。主郭1は城内最大の規模を有する曲輪で、全周を土塁が取り巻き、南西隅が櫓台となっている。発掘調査では主郭の内部から数棟の建物跡が検出されており、その様子は説明板などで理解できるように配慮されている。また、城が存続した最終期には、主郭の東端部分が堀切で切り離されたらしいことも判明している。曲輪2は、主郭から一段低い位置にあって、ほぼ全周を土塁が巻いていたらしいが、現状では道路や公園の遊歩道によって旧状がかなり損なわれている。曲輪3は主郭とほぼ同高で、主郭に面した側を除く三方に土塁を有する。主郭1・3とも、南側の土塁が幅広なのは、旧地形の尾根を削りだして土塁としているためである。なお、曲輪3と主郭とを隔てる掘は、平面が直線的であるうえ幅も15m以上あって、ほかの箇所と掘とはやや様相を異にする。曲輪4は主郭よりもやや高い位置にあるが、面積が小さく、土塁の痕跡も微弱である。主郭との間に土橋状の遺構が残っているが、城本来の遺構ではないようだ。4の北東側にも堀切を隔てて櫓台状のスペースがあるが、積極的に防御しようとする意志が希薄である。見張り場として利用し、戦闘時には適宜放棄するのであろう。 <歴史> 茅ヶ崎城が築かれた室町時代以降、武蔵国守護職および神奈川湊の支配権を得たのは関東管領・山内上杉氏である。同氏は神奈川湊に家宰・長尾氏を据えて、都筑郡域を含んだ一帯の支配にあたったと思われ、長尾氏の菩提寺である鎌倉・雲頂庵の僧侶は、神奈川から関銭・浦銭を徴収するよう命じられている。一方、鎌倉公方四代・足利持氏と関東管領・山内上杉憲実が対立する中で、山内上杉氏を補佐する扇谷上杉氏も勢力を拡大し、15世紀半ばには相模国守護職を得ていった。武蔵国と相模国は、それぞれ山内上杉氏と扇谷上杉氏に支配されていったのである。そして亨徳3年(1454)、鎌倉公方五代・足利成氏が山内上杉憲忠を謀殺して下総国古河に逃れた享徳の乱以降、山内・扇谷の両上杉氏は、ともに古河公方家と対立して、関東一帯は約50年に亙る争乱に巻き込まれていく。文明8年(1478)6月、山内上杉氏の家宰・長尾氏の内紛が勃発し、首謀者・長尾景春に与同する南関東の諸勢力も蜂起した。このとき小机城(横浜市港北区)には景春被官の矢野氏が兵を挙げ、さらに練馬・石神井城に豊嶋氏が蜂起するものの、太田資長に攻撃されて滅亡している。この長尾景春の乱とそれに続く山内・扇谷両上杉の争いである長享の乱によって、山内上杉勢力は南関東から撤退を余儀なくされたと考えられている。長享の乱の後、神奈川湊には扇谷上杉氏の家宰・上田氏が置かれ、都筑郡域の支配も上田氏が行なったようだ。池上本門寺の僧侶・日純は、布教のため「神奈川城」の上田宗詮のもとに立ち寄り、宗詮より一軸を得ている。南関東の支配が山内上杉氏から扇谷上杉氏にかわり、神奈川湊周辺および小机城で戦乱が繰り広げられる中、茅ヶ崎城もまた同様の戦火にさらされたと想像できよう。茅ヶ崎城の出土遺物には、内底見込みに渦巻文をもつかわらけが含まれている。このかわらけは城の中郭および北郭から約数十点出土しており、その出土状況から短期間での制作・使用が伺える。大きさは口径が七センチを超える大型のものから、五センチ程度のものまでバラエティに富み、内部の渦巻文も一重から四重までさまざまに見られる。いずれも15世紀半ばのものと推測されている。同様の渦巻文をもつかわらけは、現在のところ、深大寺城(調布市)や河越城(川越市)、丸山城(伊勢原市)など、南関東のおもに扇谷上杉氏の拠点となった場所から出土している。かわらけとは、平安末~鎌倉期以降、主に都市部の儀式や饗宴の場で使われた、非日常的な道具であり、室町幕府の儀式の中でも頻繁に使用されて、武家儀礼の必須アイテムとなった。やがてそれは全国の守護勢力の拠点に伝播して独自の形態のかわらけを生み、古河公方勢力・山内上杉氏勢力・扇谷上杉氏勢力のそれぞれでも、形や内底面の表現に顕著な差違が指摘されている。そしてその内、扇谷上杉氏のかわらけという見方を示されているのが、渦巻文かわらけである。このような研究は、茅ヶ崎城をはじめとする文献資料に乏しい多くの城郭について、新たな方向性を示唆するものであり、今後の発掘調査・整理に期待されている。 <出典>関東の名城を歩く(峰岸純夫・齋藤慎一)、神奈川中世城郭図鑑(西股総生)</出典>東武伊勢崎線の羽生駅から東方面に車道を行き、羽生市役所の手前で北進する。古城天満宮の開けた境内に着く。周囲には、水路が張り巡らされていることからも、この場所はそれほど高くない場所であるようだ。城があった時期は沼地に囲まれた場所だったそうです。<地図>羽生市は埼玉県東部に北にあり、利根川を隔てて左岸は群馬県である。羽生城は市街地の北東端にあり毘沙門山古墳から続くローム台地が、利根川の沼沢地に細長く突き出した台地に築城されていた。<遺構>江戸時代の城跡は「当城は平城で、西を首とし、東を尾とし、東南北の三方は沼地で、西のみ平地に続く。ここに大手門があった。本丸と二の丸との境には土手の跡が残る。大手を入り、二の丸がある。そこは東西、南北ともに30間余である。橋を渡ると本丸となり、土地が高く、形は円で、東西60間余、南北40間余である。本丸の北東に天神郭がある。」と新編武蔵国風土記稿にある。<歴史>羽生城の築城時期は明らかではないが、三宝荒神像に天文5(1536)年の広田直繁、忠朝の名があり、この当時広田式部大輔直繁が城主だったとみられる。天文年間には古河公方足利氏の勢力下にあったものと思われるが、天文23年(1554)、北条氏康が古河城を攻略した際に羽生城も落城し、中条出羽守が城代として置かれた。永禄3(1560)年、上杉謙信が関東に侵攻し、羽生城も陥として中条出羽守を追い、広田直繁、木戸忠朝兄弟に安堵した。その後、上杉謙信の十数回に及ぶ関東侵攻の際には、羽生城主広田氏と皿尾城主木戸氏は軍役五十騎を課せられ、つねに参陣している。元亀元年(1570)2月、広田直繁は上野館林城に移り、木戸忠朝が羽生城に移った。元亀3年(1572)、相越同盟が破棄され、8月、北条氏政は羽生城を攻めようとした。上杉謙信は木戸忠朝に救援に赴くことを伝え、羽生城の守備を一層厳重にするよう命じた。しかし、下総栗橋城主の北条氏照軍により大敗し、木戸忠朝は上野金山城へ敗走した。天正元年(1573)、北条氏政はふたたび羽生城を攻め、周辺の深谷城の上杉憲盛も降伏したため、状況はさらに悪化した。天正2年(1574)、 「第三次関宿合戦」において、簗田持助は佐竹義重・上杉謙信らに救援を求めたが、利根川の増水や、金山城主・由良成繁の離反により積極的な支援ができず、上杉謙信は羽生城に陣を構えて佐竹義重らに同陣を呼びかけたが、佐竹義重が上杉謙信の心変わりを警戒して共同作戦が取れず、簗田氏はとうとう関宿城を開城し水海城へ撤退した。上杉謙信は羽生城が越後から遠く、救援が間に合わないのを恐れて破却し、木戸忠朝以下一千の城兵を上野膳城に移した。上杉謙信撤退後は天正3(1575)年、忍城主の成田下総守氏長の支配下に入り、城代として成田大蔵少輔長親、善照寺向用斎、野沢民部らが置かれた。天正18年(1590)の小田原の役では城代の善照寺向用斎は成田氏長の命により羽生城を棄てて忍城籠城に加わった。天正18年(1590)8月、徳川家康が江戸城に入城すると、羽生城には大久保忠隣が二万石で置かれた。<関連武将>北条氏照</関連武将><出典>日本城郭大系、埋もれた古城</出典>昨年、鎌倉鶴岡八幡宮から西武蔵野まで鎌倉古道の上つ道を歩きました。その時、多摩川手前の大栗川を渡る前の場所が関戸で、関戸合戦跡などがあります。そこから西側の丘まで住宅街になっているが、その丘の上に金比羅宮のある付近が関戸城のあった所 です。この場所は多摩川の渡河点で昔は交通の要衝地で、それを監視する目的で築城されたのであろう。遺跡は、新しい住宅地になって、何も残っていないが、標識などは設置されています。 <地図> 古鎌倉街道上道は、分倍河原(府中市)で多摩川を渡る。そのすぐ南方、多摩川支流の大栗川と乞田川の合流点を東方眼下に見下ろす比高50m余りの通称「城山」に、関戸城はあった。付近は多摩川の最も古い渡河地点の一つとされ、早い時代から宿駅が形成され関所が置かれていた。当時城山は、関戸の町並みや分倍の河原、武蔵国府の府中、武蔵野原を一望できる重要な戦略拠点とされていた。聖蹟桜ヶ丘駅から南に川を渡るとジグザグの道路が高度を上げて続く。坂を上りきった場所に金比羅宮がり、桜ヶ丘住宅地内を通る車道の天守台(関戸城址)の標識がある。この付近の高台が関戸城址である。 <遺構> 現在、城址一帯は、桜ヶ丘団地として開発され、住宅が密集して遺構はほとんど失われている。金比羅宮のある場所は、多摩川方面の展望がきき、過渡点を見張るに絶好の地点であり、天守台の標識の東側は、古鎌倉街道を見渡せる場所で、斜面には小さな公園や住宅が続いている。これらの地形から城が築かれていた場所であることが想像できる。 <歴史> 元弘3年(1333)の新田義貞と北条泰家が戦った分倍河原・関戸合戦や、足利尊氏と南朝の新田義興が戦火を交えた武蔵野合戦(1352年)の舞台となった。また明応3年(1494)、扇谷上杉定正の守備する関戸要害(城)を、山内上杉顕定が攻め落としたことが史料に見える。戦国時代には、小田原北条氏の所領とされた。 <関連武将>上杉顕定</関連武将> <出典>日本城郭大系、むさし城跡ウオーキング</出典>鎌倉時代から室町時代に大きな勢力を誇った豊島氏の関係する城址であるが、長尾景春に同調し、太田資長(道灌)に攻め滅ぼされた。利根川町の布川にあった城も豊島氏と言われているので、豊島氏の一族は戦国時代まで生き延びたのであろう。豊島氏の名前は東京都の区名や豊島園などに残されているので、当時の勢力の大きさが偲ばれる。しかし、平塚神社やその周辺には城の遺構が何も残っていない。 <地図> JR京浜東北線の上中里駅を南に出るとすぐ上りの坂道(蝉坂と呼ばれる)があり、その坂道の右手に上に平塚神社があつ。そこが平塚城址と言われている。この場所は、北側に流れる隅田川の上流と荒川(昔の入間川)の河岸段丘上にあり、武蔵国から下総国や常陸国の国府に通ずる官道が通っていて豊島駅のあった交通の要地であった。 <遺構> 平塚城の城の機能としては、北側の崖が防衛線と思われるが、平塚城が史料上の現れる文明8年(1476)に始まった長尾景春の乱での豊島氏と太田道灌(資長)との争いからは、むしろ、太田資長の南方向(江戸城)からの攻撃に備えたとすると、南側に防御施設があったのかもしれない。この平塚神社が、豊島氏の本拠の1つであったと思われるのは、豊島近義は、源義家(八幡太郎)に臣従し、奥州征伐の帰途(1097年)、平塚館に逗留した源義家が、歓待のお礼にと豊島近義に鐙一領を祀った「甲冑塚」が社殿の裏にあり、神社の護りとなっていることからもわかる。 <歴史> 豊島氏は秩父氏の庶流で秩父武基の弟ないしは次男と考えられている武常がこの地を開発し豊島氏を称したといわれ、この子豊島近義は源義家に属していた。保元の乱(1156)に源義朝に従った武蔵武士の中に豊島四郎の名がみえる。「吾妻鏡」の当初から出てくる豊島清光は、豊島近義の子である。彼は熊野権現を勧請して王子権現を建立し、また清光寺の開基にもなった人物である。彼は豊島清康・豊島朝経・葛西清重らを率いて源頼朝に従って戦い、鎌倉幕府創設の功臣であった。豊島清康が早く死去したため、豊島朝経が総領となり、紀伊や土佐の守護にも任命され、多くの所領を与えられた。豊島清重も奥州藤原氏の旧領地支配し、東北地方に広大な所領を得ている。承久の乱(1221)には、豊島九郎小太郎・豊島十郎が武功をあげたと「吾妻鏡」に見える。豊島朝経の系列(総領家)が、この平塚城を根拠地にしていたらしい。すなわち豊島荘が彼の本貫地であち、豊島清光が熊野権現を勧請したということは、おそらく豊島荘を京都の熊野社に寄進したものであろう。正慶2年(元弘3、1333)、鎌倉攻めの兵を挙げた新田義貞のもとに参集した武蔵武士の中に豊島氏の名があり、庶流の滝野川・板橋・赤塚氏を率いていたことが知られている。応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に際しては、豊島氏は江戸氏と供に関東公方足利持氏方に加わって戦っている。永享の乱にも足利持氏方に与して上杉方と戦っているが、太田資長が江戸城を築いた頃には、豊島氏は太田資長と直接対決しなければならなくなった。文明9年(1477)正月、両者の間は風雲急を告げた。 山内上杉氏の家宰白井長尾景信が死去すると、関東管領上杉顕定は後任の家宰に上杉景信の弟の総社長尾忠景を任じた。長尾景信の嫡子長尾景春はこれに強い不満を持ち、長尾景春は、文明8年(1476)に鉢形城(埼玉県寄居町)に拠って、上杉顕定に叛旗を翻した。その時、豊島氏は、それまで白井長尾氏に属して戦っていたので、長尾景春に同調して、挙兵した。そして、扇谷上杉氏の家宰であった太田資長により、攻撃されることとなった。当時の扇谷上杉氏は河越城を拠点としていて、太田資長は江戸城を拠点としていたので、その両所を分断するように豊島泰経・豊島泰明兄弟は、平塚城・石神井城を取り立てて、籠った。豊島泰経が石神井城の城主で、豊島泰明が平塚城の城主であった。文明9年(1477)4月、豊島軍と太田軍は、江古田・沼袋(東京都中野区)で合戦となり、豊島軍は、太田資長軍に敗北し、豊島泰明は戦死した。また、豊島泰経も没落した。文明10年(1478)に、豊島泰経は太田資長が上野に在陣の隙に、再び平塚城を取り立てて蜂起する。しかし、太田資長に攻められ、没落し、丸子(川崎市)を経て小机城(横浜市)に逃れ、小机城に籠城するが、ここも太田資長に攻略される、このように、豊島氏の嫡流は、太田資長によって、没落させられた。 <関連武将>豊島泰明、太田資長</関連武将> <出典>日本城郭大系、関東百城、豊島氏の滅亡(黒田基樹)、豊島氏と城館をめぐる諸問題(齋藤慎一)、むさし城跡ウオーキング</出典> ";s:7:"keyword";s:37:"気を 遣 わせ ない おごり方";s:5:"links";s:9694:"<a href='http://arcanepnl.com/site/%E5%B8%B0%E5%8C%96%E7%94%B3%E8%AB%8B-%E6%9C%9F%E9%96%93-2018-9fd2eb'>帰化申請 期間 2018</a>, <a 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